新城喜一(BUVILE ー舞台美術家への道ー)
沖縄を代表する舞台美術家である新城喜一氏の足跡を辿る貴重なインタビュー記録。
戦前から戦後にかけての那覇で育った新城氏は、独学で絵を学び、映画看板からキャリアをスタートさせた。沖縄初の舞台装置デザイナーであり、情熱を持って沖縄の風景や芸術を形作り続けた1人の芸術家です。
ー お会いするのが初めてで、お互い緊張 しちゃうかもしれないですけど、ざっくば らんにお話ができればと思っております。 生まれの場所と、お歳とを教えていただい てよろしいでしょうか?
新城:昭和 8年 4月24日。生まれも育ち も、那覇です。92 歳です。
子供時代
ー どのような子供時代を過ごしていたか 教えていただいて下さい。
新城 : 戦前は映画館の近くにお家があっ て、映画が変わるたんびに、しょっちゅう 映画ばかり見ていた。「ぬぎばい」といってね、沖縄言葉で、無銭入場。
ー お金を払わないやつですね!(笑)
新城 : あの頃は、逆に結構よくあった話で。 子供だからね、大人の袖を掴んで家族になりすましてはいったの。 映画館の看板の真似をして描いたね。
ー 子供の時代からですか?
新城 : 勉強しないで、絵ばっかり描いてた んです。親父は、料理人、コックです。お母さんは何年も病弱でね、寝たっきりだった。
ーご家族に絵を描かれた方とか、いらっしゃったのですか?
新城 : いません。親父は、料理人、コックです。母は、病弱で、何年も寝たっきりだった。
右から母と四男盛考 長男喜一 三男榮德 二男榮市
映画館で看板絵を描くまで
ー 映画館は、今もまだ残っているんですか?
新城:いや、もう10月の空襲で那覇は全滅です。(注1)那覇には、“平和館”(注2)というのと“旭館”(注3)という 2箇所だけしかなかった。
“旭館”は、最初は“渋谷”って言ったらしいね。舞台装置は、金城安太郎(注4)が描いていた。沖縄で有名な日本画の先生で、この人が舞台装置をやっていてね。
ー 色々と不勉強でした。調べさせていただきます。ありがとうございます。続いて、学歴も教えていただいてよろしいですか?
新城:中学校しか出てない。学校が嫌いだった。(笑)
ー (笑)その中学校出るときも、ずっと、好きだから絵を描いているという感じですか?
新城:はい。もうずっと落書きみたいな。16歳ぐらいからね、本格的に絵を描くようになったよ。おうちで。先生はいないんだよ。
ー 完全に独学ですね。
新城:そうです。全部手描きで、掛け軸の真似事。表具屋も第一世代ですからね。手描きで模様を入れて、掛け軸に似せて、これが戦後はよく売れたんだよ。
ー じゃあ、模写みたいな感じで、見ながら描いたのですか?
新城: そう。松竹梅鶴亀は、一番人気があって、これ描いてたね。
ー すごい、すごいですね。独学で…。それで、生計を立てていたのですね。
新城:そうそう。
金城安太郎「伊野波節」 沖縄県立博物館・美術館提供
ー で、そのあと19歳で、映画館の看板を描くようになっているのですが、それはこの那覇の映画館ですか?
新城:そうです。“世界館”というところで。
“世界館”を壊して、その後に“国映館”(注*5)になった。“大宝館”と両方描いていました。
ー へえー、すごい。その当時の写真ですね。
当時の大宝館
ーその映画の絵看板っていうのは、何かこのシーンを描いてくださいみたいなことですか。
新城 : いや、自分で、構図を考えて『。失われた沖縄の風景シリーズ』の第四弾にも“国映館”の絵があります。
ーありました。“国映館”
新城 : それでこれに描いてある。乗用車が 停まっているという。幸太郎さんの車。
ーこちら“国映館”の、お偉い社長の車を(笑)ここに見える看板という看板は全部、新城さんが描かれたものなんですね。
新城 : もうピンからきりまで。
ーどのぐらいの大きさですか?
新城 :2 メートル 50 センチ
ー結構大きいですね。
新城 : これが普通で、もっと大きいのもある。
ーこれ 1 枚書くのにどのぐらいかかるも のなんですか?
新城 :1 週間に一回上演作品が変わるもんですから、1 週間かかる。だから、疲れる。
新城喜一画 失われた沖縄の風景シリーズ第 4 弾「沖縄風景への誘」(P65 国映館 328×542 ミリ 水彩画)
ー やはりこれは、油性ですよね?
新城:戦争直後は、あの絵の具がなかったものですから。アメリカ製オイルペイント。
ー なるほど、看板を描く前に、基本構図って言うんでしょうか、下絵みたいなのも描かれるんですか?
新城:あの15A(注6)ぐらいに、大きくするので。ポスター5版は描いてね。看板にも、5版描いて、これで、なんとか見せて。
ー やはり大変ですよね。舞台美術だと、小さい絵だけ書けばいいですけど。実際、大きく描かなくちゃいけないから。
新城:内地辺りは、顔は、顔だけ描く。バックは、バックだけ描く、と専門職に別れていた。字は、字だけを書く別の人が描いていた。沖縄ではピンから切りまで。
ー 全部一人で(笑)。何人か、看板絵というものをやっていた方を知っているんですけれども、そこまで聞いたことがなかったので、びっくりしました。
新城:ああ、そうなのね。油性ペンキだったので。それをガソリンで溶かすんですよ、私が入る前に別の人がやっていたものに、ガソリンが、引火して、火事になったの。上映中にね。お客さんがいる時に。
その時にやっていた映画が。鶴田浩二主演の「ハワイの夜」2階の奥で描かれて、それが引火して全部燃えた。
ー その方、クビになったんですか?
新城:急いで外に出たので、けが人はいなかった。 クビにはならなかった。
ー それは寛大な。
新城:その後作り直したのがこの看板。
ー 19歳のすごい経験から…何年ぐらいまでされていたんでしょうか?
新城:26歳まで
ー じゃあ、ベテランの域までいくという
新城:“国映館”で看板描いている時に、19歳の美空ひばりさんが来て。初めて舞台装置を描いた。
その時は市民会館というのがなかったんですよ。それで、映画館で歌うようになって。
ー そこが初めてなんですね?
新城:美空ひばりさんに、楽団の後ろに何か飾ってほしいとお願いされて。
ー そこで舞台美術につながったんですね。その時までに舞台装置の勉強を、したことは?
新城:まったく
ー すごいですね。いきなり描いて下さいって言われたのですか?
新城:「バックに何か飾って飾りをつけなさい」と…。具体的に考えるのが…。何を描こうかと。
ー ご自分で考えて、その時なんかヒント、例えば「曲は、この曲を歌いますよ。」とか、そういうのは聞かれたんですか?
新城:聞かないですよ。楽団を飾るだけだから。
ー その時の絵は、残っていますか?
新城:いや、残ってない。写真撮ればよかったけど、でも終わってからね。一緒に、舞台で並んでみんなで写真を撮りました。
ー じゃあ、どっかにあるってことですね。 きっと。美空ひばりさんの資料を探していったら出てくるかもしれないですね。
新城:そうだね。
装置への転身
ー 突然やることになったとは思うんですけど、そのあと、まだ看板の絵を描きながら、装置もやるようになったんですか?
新城:26歳までは看板をやって、そのあとは自分で看板屋さんをやったんです。
ー それは映画だけじゃなくて、例えば、お店とか様々な看板っていうことですか?
新城:そう、看板描いてるうちに、〝沖映〟という所が、芝居をやるようになった。
それまでは映画ばっかりだったけど、テレビができて、下火になって。
ちょうど1966年ぐらい
試しに芝居をやってみたら、満員だった。
それから、自信がついてずっと芝居をやるようになった。
ー 最初にやったのは、どのような芝居だったのですか?
新城:「おきなわ」という、沖縄の時代の始まりを描いた作品でした。映画をやっている時は、松竹大映画専属だったんです。
松竹は、松竹歌劇団ってあるでしょ。
そこから、脚本と、美術のスタッフを呼んで、その人たちにさせたんだ。昔からある沖縄芝居を見てもらって。その、芝居を膨らませて長くして、3時間にして上演しました。舞台道具がね、舞台が狭くてやりづらかったんだよ。
ー 映画館を劇場にしたっていう感じだからですかね?映画館だから、袖が狭くて、吊りものも、できないですよね。
新城:大道具は難しかった。
1965 年 5 月 「おきなわ」プロローグ上演写真
ー 想像するにきっとそうなんだろうと思いました。この時はデザインもされて?
新城:沖縄で、道具帳を描いたのは私が初めて。その前はね、口立て芝居(注7)といってね。口で伝えて、終わったら何も残らない
ー そういうやり方もあったんですね。それは誰にも教わってないですね?
新城:松竹歌劇団の人がしているのを、見て学んだ。最初は、幕とか描いて持ってきているのを、見て、写実的に描いて。
ー 見て、「こういうふうにやっていくといいかもしれない」と学んで、形を残し始めたのですね。 それじゃあ、この原画のやり方もそうですね。
新城:あとは全部、脚本から想像して描いたやつです。
ー すごくきれい。これ休憩中に替えたりとかしないといけないと思いますが、どのようにされたのですか?
新城:沖縄芝居、最初は、鎹(かすがい)というのを使って、一景が終わったら、幕がおり、後ろでカンカンカンカンって
ー 歌舞伎でもよくあります。
新城:時間がかかるんだよ。それを、全部天井につり下げるようになって。それは松竹歌劇団の人が最初にやったんですね。
ー 劇場仕様に変えた時に、色々できるようにした、ということですね。
新城:今まで時間かかっていたのが、、一瞬にして、変えられて。
映画みたいだから、お客さんはとっても気に入って。それまで外にお客さんを出して舞台装置を変えていたのを、暗転で変えることになって、お客さんが外に出なくても良くなった。舞台装置でお客さんを呼んだんです。仕掛けがいろいろあって、何十回も演るから、その仕掛けも、だんだんネタ切れになって、お客さんも減って来ちゃってね。それまで見たことのない技術だから、美術を見に行ったという人もいた。とにかく、舞台装置をみるだけだったんだよ。“沖映”ができる前は、芝居が50セント、映画が70セント。その時の舞台は、入場料が1ドル(注8)だったんだよ。
ー まだドルの時代ですね。(注9)
新城:それでも、満員だった。1週間ずっと、満員だった。大盛り上がりだったんだよ。最初の時は楽しかったね。
お客さんが、芝居見て、玄関で話してるのを聞いたのね。それでやってよかったなって思ったんだよ。
ー そのくらい衝撃を与えたという。大革命が沖縄で、起こったんですね。そしてこの“沖映”で、基本的にはしばらく、デザイン専属なさったのですね。
新城:15年ほどずっと。最初は松竹歌劇団の人がやってたけど- 7回目ぐらいから89回まで私がずっとやった。
1965 年 5 月 「おきなわ」第一部神代の巻 第一景
1965 年 5 月 「おきなわ」第二部為朝渡来の巻 第一景・二景・三景
那覇市の『沖映通り』の名前のルーツである『沖映劇場』。観客には、イヤホンの端子が2つあり、 1つは、日本語、一つは英語で沖縄語の芝居が聞けるようになっていた
映画館時代(複製図 日本舞台美術家協会)
劇場に改装後の図面 (複製図 日本舞台美術家協会)
一番良かった作品
ー 沖映作品の中でこの作品は良かったという、思い出はありますか?
新城:あの、『真玉橋由来記』(まだんばしゆらいき)(注10)という壮大な話です。真ん中に、ミニチュアの集落をつくって、川が氾濫して、集落が、水で全部流されてっていう、その装置を作ったんです。ちょっと斜めにして、家とか木とか建てて、これを4トンぐらいの水を流して、倒れるようにしてね。家も一緒に、サーッとミニチュアを流せるようにした。
ー 屋上から本当の水を流したんですか?結構ですね。
新城:それをね、お客さんはびっくりしてみんな立って見ているんです。どこ見てるかというと、床を見ている。
ー その時の、水の処理はどうしたんですか?
新城:斜めにして、受けを作って、奈落に流して、それをさらに屋上に流れるようにした。
ー これは大工事ですね。別に怒られはしなかったんですか?
新城:この後もできない。もう無理。お金かかるね。
ー 怒られたりはしなかったんですか?
新城:怒られはしなかったですね。喜ばれたんです。見たお客さんは未だに話しています。
ー なるほど、この建物自体が、社長のものだったから、大丈夫だったんですね。
新城:その好評の噂が東京に届いたらしい。朝日グラフが取材にきて、5.6ページの特集になりました。
ー すごーい。(笑)
ー 劇場がなくなっても、跡地に〝沖映通り〟という名前が残るほどです。専属給料も払って美術家さんと分業ができたというのは、資金があったからということですね。15年ですから、お金を惜しみなく使う社長さんだったから出来たのですね。感動です!
朝日クラブの記事より
OHK での仕事
新城 : 私は沖縄芝居だけじゃなくて、NHK の共同番組の。セットを作ったりしてて。
ーそうなんですか?沖映に所属しながら
新城 : そうそう、やりながら。NHKは、まだ沖縄に来てない時期です。 最初はね、NHK じゃなくて、OHK だった。
ー沖縄放送局。
新城 : 芝居の装置を作るっていうので、頼まれたんですね。それから、テレビの方の郷土番組に。30 年余りです。
ー基本的に先生は、ずっとフリーという考え方でいいんですか?
新城 : 沖映の最初はフリーでもやって、ただ、金払いが悪くてね。ちゃんともらえる かなと思って、サラリーマンみたいなこと にしました。沖映が、終わる頃はね。1 ヶ月分、給料がもらえなかった
ー沖映で 1 か月のお給料で、苦しくなく、 普通に生活できたのですか?
新城 : またドルで貰っていた。
ーちなみに、差し支えなければ、どのくらいの金額なのでしょうか。
新城 :200 ドルぐらいだった。
ーきっと今とは全然違いますもんね。
新城 :1 ドル 360 円(注 11)ぐらいだったかな?
ーそれで生活できて、途中からだんだんままならなくなってきて、他のことも同時進 行でやるようになったっていう感じですね。
新城:NHK の共同番組で、あっ、こういうこういうセットを作って。夏は涼しいように。
ースタジオの中ってことですよね。大先輩 方は、みんな舞台だけじゃなくて、結構色々 TV や映画などのデザインをするとが多いので、「それもできるんだ、いいな~」と思っていました。 舞台美術のデザイナーや映画美術のデザイナーがテレビ局に入って、TV のセットができて、スタートしているので、両方できた時代ですね。
NHK スタジオでセッティング(夏)
ハーバービューホテル
ー 歌舞伎はデザインされたことはありますか?
新城:歌舞伎は、 何回か。
ハーバービューの社長がね。 昔、歌舞伎やってたので。そのハーバービューホテルの、舞台を広くして。 舞台装置を、作った。
その時の役者がね、人間国宝の七代目尾上梅幸。その息子が七代目尾上菊五郎。2、3回上演しました。
沖縄の歌舞伎座の舞台を見学したんだけどね。大きいものは建てられけど、あの床は汚かったね。
ー 直接釘を打ちますもんね。 ボロボロになるまでは張り替えませんから。音立てる綺麗な床は、所作台を敷きますもんね。 でも劇場基本床が、消耗品という考え方は正しいですけどね。
新城:少し話を戻してNHKからの感謝状をもらいました。
NHK 感謝状授与式
ー みなさん箱を持っているのかな。ちょっとシュールな写真だなと思っていました。喜一さんは、沖縄芝居もされてましたか?当時の番組でしょうか。そこでは沖縄芝居をデザインされていたのでしょうか?
新城:あ、これあの沖縄テレビの、スタジオの中。「泊阿嘉」(とうまいあーかー)の中の代表的な作品です。
ー 喜一さんは、背景も自分で作られるんですか?
新城:ピンから切りまでもう、裏方、転換スタッフまで
ー 転換スタッフまでやっていらっしゃったんですか!?本当に人何役もですね。
新城:10名ぐらい、大学生のアルバイトを使って、転換してた。それを指導したんだ。
ー でも、その転換までやってらっしゃると、次のデザインをする時間は、どういうふうに作ってらっしゃったんですか? 年間仕事がいっぱいあるわけですよね。どうしていたんだろうと、思ってしまうんですけど。
新城:転換は、ずっとやっていたわけではなくて、途中から任せてた。芝居が、ロングランで、できるんですよ。1か月ぐらい。真玉橋は2ヶ月ぐらい
ー あっ、そんなにやってたんですね。
新城:それはやっぱり途中で売れたから
ー 私は、その方式になればいいのにってずっと思ってるんですけど、アメリカ方式ですね。繋がっているんでしょうね。
新城:当時、アメリカ政府が復帰するまでは、あったかもしれないですね。
ー 『真玉橋由来記』で2カ月だったら水、1日4トンですよね。大丈夫でしたか?
新城:はい、大丈夫です。同じ水を繰り返し使ってました。(笑)
弟さんとのお話し
ー お弟子さんなど、後進の方は、育てられたんですか?
新城:一緒に大道具を作るのは、5名ぐらいいた。弟は東京のデザイン会社に勤めていたけど。
芝居が忙しくなったからで、お前やるかって電話したら、すぐ戻って来て、それでずっと一緒に作った。
ー 弟さんのお名前は榮德さんですよね?まだ弟さんはやってらしているんですか?(注12)
新城:うん。85歳だね
ー これらの榮德さん作品集は、今現在残ってるものなんですか?
新城:そう。俺の持ってる道具も全部あげたよ。幕も、10枚ぐらい。
ー 榮德さんは、東京のデザイン会社では何をされていたんですか?
新城:出版。
ー 出版の関係だったのですね。
歌舞伎との出会い
ー 歌舞伎と出会うようになったのは、どういうきっかけなんですか?
新城:社長と知り合って、その時美術プランやってるの、私だけで。それで頼まれて、
ー やるようになって、それで東京や大阪とかには行かれたのですか?
新城:行ってない
ー 沖縄のみ素晴らしいです。
新城:大道具帳の原画を頼まれて、最初は私が先頭に立ってやっていた。それで向こうが任せるようになりました。
ー 私は沖縄芝居というのも、まだあまりよく理解してないんですけれども、どういうお芝居ですか?
新城:沖縄の言葉、沖縄の昔の首の扮装で、 沖縄で生まれ育ったということです。これをあげます。DVD
ー またあげちゃって大丈夫ですか?(笑)ありがとうございます。嬉しいです。
新城:大丈夫です。沖縄方言でしゃべってるから、ちょっと分かりにくいかも。
ー きっと、何を言っているのか分からないですね。ちょこちょこ質問させていただきます。そして、また色々と教えてください。 今日は、ありがとうございました。
2025 年 10 月 26 日 若手に背景の仕方を教える新城喜一さん
注釈
注1)1944年10月10日にアメリカ軍が行った大規模な空襲「10・10空襲」を指します。この空襲は南西諸島全域に及び、特に沖縄本島では那覇市街地が壊滅的な被害を受けました。また、この空襲を機に多くの住民が避難生活を強いられ、後の沖縄戦へとつながる転換点となりました
注2)平和館、大正8年(1919)西本町に開館、昭和7年(1932)からはトーキー映画が上映された。
注3)戦前の那覇市西本町(現在の西1丁目)にあった劇場で、当初は「旭劇場」と呼ばれていました。
主に沖縄芝居が上演されていました。
注4)金城 安太郎(きんじょう やすたろう、1911年12月10日 - 1999年1月1日)は、昭和初期から沖縄県で活動した日本画家で、特に米国統治下、琉球政府時代の沖縄における新聞連載小説や雑誌などの挿絵によって知られ、「沖縄最初の挿絵画家」と評された。
注5)同じ場所に建っていた映画館ってことで。倒産して、あとに国場組が買い取り、これが“国映館”となる。
注6)配管の呼び径であり、**外径は約\(21.7\text{mm}\)**で、内径は使用される管の種類によって異なりますが、\(16.1\text{mm}\)や\(17.5\text{mm}\)などの場合がある。
注7)脚本をあらかじめ用意するのではなく、大まかな筋だけを決めておき、俳優たちが稽古の場で話し合いながらセリフや段取りをその場で作り上げていく演劇の作劇法です。初期の歌舞伎などで用いられた伝統的な方法であり、俳優の個性や創造性を重んじる手法です。近年では、つかこうへいの作品制作方法として知られている。
注8)1945年の沖縄戦終結に始まり、アメリカの施政権下での基地建設と住民による「祖国復帰」運動の激しい闘争を経て、1972年の沖縄返還(日本への復帰)に至るまでの複雑な過程をたどります。この間、沖縄は「本土」とは異なる独特の戦後を経験し、米軍基地の存在、土地問題、そして独自の政治的・経済的状況に直面しながら、復興と発展を遂げてきました。
注9)注11)1ドル=120B円=360日本円
注10)不明
注12)インタビュー後、2025年10月17日午後5時7分、新城榮德さん永眠。4人兄弟の3番目。として1938年那覇生まれ。平成27年第21回ニッセイ・バックステージ賞受賞。平成30年度沖縄県文化功労者として表彰された。
公募に出して選ばれた緞帳 豊見城村立中央公民館
EXPO’ 75 国際海洋博ポスターのデザイン
NHK おかあさんと一緒 デザイン・製作
新城榮德デザインと背景幕
画像提供:令和 6 年度沖縄文化芸術の創造発信支援事業 .支援:沖縄県文化芸術振興会
画像提供:令和 6 年度沖縄文化芸術の創造発信支援事業 .支援:沖縄県文化芸術振興会
画像提供:令和 6 年度沖縄文化芸術の創造発信支援事業 .支援:沖縄県文化芸術振興会
画像提供:令和 6 年度沖縄文化芸術の創造発信支援事業 .支援:沖縄県文化芸術振興会
2025年10月16日
沖縄新城喜一宅にて
インタビュアー:伊藤雅子
同席者:
伊良波さゆき(沖縄芝居研究会代表)
金城真次(国立劇場おきなわ芸術監督)
関連リンク
関連ファイル
プロフィール
新城喜一
新城喜一
SHINJYO Kiichi
1933年(昭和8年)沖縄県那覇市生れ。 19歳で映画館の看板絵師になり、「世界館」「国映館」に勤務した後 1966年より「沖映演劇」に勤務し、舞台美術を担当。 テレビ番組などの美術も手掛け、「沖映演劇」の終了後は、県内各地で沖縄芝居のみにとどまらず、さまざまな公演で、舞台美術を手掛ける。 2016年(平成28...