緒方規矩子(BUVILE ー舞台美術家への道ー)Vol.2
日本舞台芸術オーラル・ヒストリー・ アーカイヴ・プロジェクト にて話し足りないことをさらに深掘りしたインタビューです。緒方規矩子という人の強さを感じることができます。
女学校卒「夕鶴事件」
― いつから演劇の環境に入ったのでしょうか?
最初は学生演劇です。美専(現京都市立芸術大学)入った途端に勧誘が来ました。何が何だか訳がわからないまま。芝居が好きだから入っちゃったというか、まあやってみようかな位で。美専は伝統がありました。上村松園さんの息子、松篁さんなどもみんな参加して。吉田義男もいました。東映の悪役スター。ゴリヤンって言ってました、私達。
― そこから始まって。
『夕鶴』もその学生演劇が日本初演しました。やってしまったの。木下[順二]さん(注1)に断らずに。私がラジオを聞いて感動して。宇野[重吉]さん(注2)と山本安英さんのラジオ放送。私、持ってるわよテープ。[劇団]民藝がくだすったの。
その放送を聞いて、木下順二が書いた日本の初めての民話劇で、『婦人公論』に台本が載ったというんで。早速買ってきて読んで、みんなでこれやろうと言って。
― 許可なしで?その時先生は女優だったんですか!
そう。女優って1人しか出ないもの。
― おつうを演じたの?
そう。こんなにでぶじゃなかったけど。だけど、菊五郎のおつうさんみたいだって
言われました。がっちりしたてたんじゃないの。
[田中]一光ちゃんは与ひょうだよ。ぴったりでしょう?
そのときに本を持ってきたのは私でしょ、演出も私でしょ。他に誰もいなかったのよ。だけど自分が出演していたら演出はできないでしょう。それで、[劇団]京芸の大将の岩田直二(注3)を呼んできたの。
私達は岩田直二に憧れたものよ。放送劇団にもいたし、ちょっと知的な芝居できる人といったら、そういなかったから。岩田直二を口説きに行って、演出を頼んで見てもらって。でもそれまでに本読みとかなんか全部、私がやってしまったんだもの。だって誰も台本を持って来ないのよ。うちの学校ってみんなあほばっかりそろって。本を読むような人は一人もいないんだもの。(笑)
― ガリ版刷りは緒方さんがしたの?
そんなのみんながやってくれる。
― やっても台本、持ってこないの?
台本を読んでいなかったの。それで、どこにも断らないで、本当に上演してしまいました。これは面白いと。その前に、私達を劇団に引っ張り込んだ先輩達がやってたのはアラビア古典劇『呪い』という作品でした。
― アラビア古典劇?
それから陶工、柿右衛門だった。『猿からもらった柿の種』っていう左翼の芝居だけれどね。うちの学校の学生演劇には方針が全くありませんでした。
― 『夕鶴』を上演したときに、衣裳はどうしたんですか?
全部、私が描きましたよ、もちろん作りましたし。衣裳屋から借りてきたりなんかもして。着物もんだったら何とかなるでしょう。普通のでは面白くないから自分達で作ったり貼ったり。それはデザイン画もあったんだけど。
― それが最初のデザインですか?
そうですね。最初、女優もやって衣裳も、デザイナーもやって、演出もやって、照明もやって。(笑)
― 無許可でやって。(笑)
何でもありで無許可で。あとで木下さんにしゃあしゃあと『夕鶴』やりましたと言ったらものすごく怒られて。木下順二さんが京都に公演にいらして、山本[安英]さんの『夕鶴』を上演したときに、ちゃんと「手伝わせてください」と言って、裏の仕事を全部手伝いました。アトリエ座の公演をみんなで。[本来ならこの京都公演が日本初演のはずだったのですが、学生だった緒方さんたちは、知らずに許可も取らずに勝手上演してしまった]
アトリエ座って、戦前からある伝統のある劇団なんです、美術学校の。方針なしに何でもいろいろな作品を上演していました
和 22 年 7 月 アトリエ座第 2 回公演 「呪」
私達はその後、『ペレアスとメリザンド』も上演したのよ。オペラでなく、芝居で。やりたいと言って本を持って行ったはもちろん私なんだけど。演じる子達が誰一人、内容が分からなかったの。象徴劇でしょう、『ペレアスとメリザンド』って。上演される回数も少ないですよね。それをまた京都の観光局へ行って許可を得なければならないの。観光局へ行って、こういう演劇をやりますと言って判子をもらわなきゃなんないの。そのときに『ペレアスとメリザンド』をやりますと言ったら、観光局にいた人がむっちゃくちゃ喜んだの。何でだろう、何でこの人知ってるんだろうと思ったら、その方ものすごい偉い方で。後で大阪の追手門女学院の副校長になった、言語学の偉いさんでした。梅本さんといって、フランス文学をやってる人で。あの頃、京都には戦火を逃れていっぱいいろんな人が来てたの。上演後に感動して、手紙までくださった。こっちは何でこんなに喜んでるんだろうと思ってたのだけど。この作品を取り上げたことそれ自体を喜んでくだすったんでしょうね。京都の杉本さん(注4)もそうでしょ。
― 私(古屋)が高校生の時、アトリエ座という名前はまだありました。京都で高校の演劇コンクールがあると、くるみ座、京芸、アトリエ座あたりから審査員が出て来ました。
くるみ座よりアトリエ座のほうがずっと古いのよ。昔はもっといい芝居を上演してました。でないと、吉田義男さんみたいに左翼の俳優なんて出てきませんよ。
もっと前のことを言うと、戦争中の学徒動員のときに、不良と体の弱い者が、お寺さんなんかにやらされたの。そこに私もやらされました。
― どっちでしょう?
どっちか分からない。体、弱かったし。でも、私は先生の言うこと聞かなかったからだと思う。そのときにミュージカルのようなのを自分達でもって勝手に演じて、お芝居をしてました。めちゃくちゃ面白かった。
― お寺で?
お寺で。
― 夜中にひそかに?
毛布ざっとかぶって、馬だったら四つ足なのに、毛布に皆が入ってくるから足が、6本足も8本足もはえてるような馬。それを引いて、「八里は馬でも越すが〜🎵」[『箱根馬子唄』]と、歌っていました。だって遊ぶことがほかに何もないもの。お芝居ごっこして遊んでいました。
― だいぶ影響するでしょうね。
おかしかったですよ、みんな馬になりたがる。やりたい子がどんどん毛布の中に入ってくるから、ムカデみたいな馬になっちゃう。面白かった。先生の悪口とかも。(笑)
― ラッキーですね、お寺送りになった人達は、得しましたね。
得しました。私はそこで仲良くなった人達が何人かいます。体の弱かった子とか不良だとか。勉強のできない子っていうのでなくて。ちょいとどっか曲がってる子ばっかりだったと思うんだけど。
― 両方、該当したんですね、きっと。
美術学校に行きたいって言った時、堅い府立の学校で、美術学校なんていうところに行くのは開校以来、私が初めてでした。絵の先生がすごい喜んで。絵画部は小さくなってたの。それが1人美大に入ったもんだから、学校が喜んだのよ。それから後は美工へ入る子だとか、芸能人が出てくるようになった。府立の茨木高女(大阪府立茨木高等女学校、現大阪府立春日丘高等学校)といって、スポーツで有名な学校だったらしいの、バレーボールかなにかが強くて。
関西オペラ
-就職後に舞台に戻って来ることになった経緯を。
鐘紡へ就職しました。その前に、学校を卒業してから京都でつくられた喜劇座という劇団の創立メンバーに入ってたんです。コメディアって、フランスの真似したんでしょう。フランス文学の人だったから。(喜劇座結成メンバーの岸田國士は東大仏文選科出身)くるみ座より後だったかな。くるみ座にいた人が来たんだから。就職より先に劇団に入っていました。そうしたら一年先に、田中一光さん、粟辻さん、同級生達がみんな鐘紡へ就職していたの。その人達が、鐘紡へ来いと言ったわけ。普通、来いと言ったって行けるわけないでしょう。だけど、試験を受けさせてくれて、入れました。不思議なんだけど。学校の先生の推薦状をもらって。入社試験も全部終わってから、一人だけ。今と時代が違う。推薦書を書いてくれた先生がとっても有力な人だったみたい。うちの学校の先生なんだけど、明石染人(そめんど)さんといって、染色界の大御所なの。彼が、鐘紡のデザイン室の恩人だったわけ。
それで、鐘紡に入って半年も経たないうちに、関西で関西オペラが旗揚げしました。関西オペラの演出家の中西武夫さんという方が、宝塚の先生で、宝塚の創立のときにドイツで演劇の勉強をしてた人です。ブレヒトなんかのほうをやりたかったのでしょうけど、宝塚だからそうはいかないじゃない。あちらはロマンチックなものをするでしょう。有馬稲子を育てた先生なの。宝塚では、ショーの演出家は白井鐵造さん(注5)、演劇は中西武夫さん、日舞は楳茂都陸平(うめもと)さん(注6)。そういう3人の先生達で構成していました。
その中西武夫さんが、劇団をつくろうとしました。ただ、中西さんがつくりたいと言いだしたのではなくって、宝塚出身の萬代峰子とか、関西にはいっぱいいるの。そんな人達が劇団をつくると言ったときに、スタッフがいなかったの。私が展覧会に出してた作品を中西先生が見ていて。あの子を探してこいという話になったそうで。部下が探し当てた時、私はもう鐘紡にいたのね。「今度、関西オペラが旗揚げ公演するんですけども、やっていただけませんか」と言ってきたけども、私は、喜劇座を辞めたときに全てを止めたつもりでした。
なぜ辞めたかというと、大人の恋愛問題で劇団内がごたごたやってるから、もうこんな所にいたくないわと思ったの。劇団も辞めて、もう全部嫌、演劇世界から足洗おうと思って鐘紡に入ったつもりでした。それなのに、またそこへ探しに来ちゃったらスケベ根性が起きたの。オペラってどんなものかしらって。(笑)オペラに実際に触れたのは、中西武夫さんと一緒の仕事が初めて。関西オペラの旗揚げ公演『蝶々夫人』をやらせてもらって。それからやりだしたわけ。
鐘紡に勤めながら、関西オペラと森田さん(モダンバレエ)と三本立てでやって、病気になってしまいました。本当にぼろぼろになった。どっちか一つにしなきゃなんないから、鐘紡を辞めちゃいました。だけど一番、楽しかった頃。しかも自分が美術学校で何にも勉強してない、足りないっていうのが分かって。会社入って初めて世の中に通用しないっていうことが分かる。自分だけでいいと思ってるけども、そんなもの、子どものいい悪いぐらいなの。役に立たないというのが分かって、勉強し直しでまた画塾へ行っていました。1週間に何遍か、デッサンしに行くでしょう。本当に私、眠たかった。朝、雲の上を歩いてるみたいでした。肋膜が悪くなって。ある日、会社行ったら熱が出てるんだもん。帰れって言われて。鐘紡には約2年なの。3年いれば年金がもっとたくさん付くのに、もうじき3年になるっていうのに辞めちゃった。そしたら妹尾河童が、「おめえ東京、来ないか」って。「行くわ」って言って来ちゃった。河童は昔、神戸にいて、そのあと大阪の朝日会館の看板描きしてたのよ。27歳か8歳の頃よ。
河童はある意味でもって恩人なの。でも河童よりかは履歴は古い。だって、河童は劇場の看板描きだったでしょう?
―それは何の看板描きだったんですか?
劇場の。その前の神戸では、映画館かなんかやってたんじゃないかな。その後は朝日会館のプログラム、チラシ、ポスターとかも。(それは河童に聞いて。)舞台装置は、三林亮太郎さん(注7)が何らかの事情でやらなくなったときに、藤原義江先生に、おめえ描けって言われて、突然、描いた。別にあの人、勉強したわけでも何でもないのに。好きだったんだね。
河童さんとの出会い、上京
一光ちゃんの紹介。一光ちゃんもグラフィックが好きだったから。だけど本当はどういう知り合いなんだか知らない。一光ちゃんの紹介で、知り合ったと思う。だからそんなによく知らない。嫌なやつと思ってた。
なんで来ないかって言ったかというと、河童は東京に来たとき舞台装置を描かされるだけでなく、衣裳まで全部やらされたらしい。「俺、死んじゃう」って言って。後で、「俺、命拾いした」と言われた。そんなわけで河童の所へ来たけど。
河童が来いって言ったのは、その時彼は、貝谷さんのバレエの装置の仕事をしていたの。衣裳は東宝衣裳にいた吉村倭一さんっていう人がデザイナーだった。でも河童は「いいよ、おまえさんやれよ」と偉そうに言うんだよね。ところがプログラムにも何も吉村さんの名前が出てた。だからそれはできないっていうことになって、私は約1年、何にもしないで失業保険だけで食っていました。そのとき一番、貧乏だった頃。朝、起きたら映画館へ行って。3本、映画、観る。面白い映画観てるとお腹減んない。またうち帰って寝ちゃう。生まれて初めて下宿して。下宿のおばさんがそっと見に来たって。緒方さんまだ寝てるよって。その一番、大変だったときに、谷バレエ団に留守番に行って。叔母から頼まれた。谷のバレエ団が全国公演をするようになって、叔母が付いてっちゃうもんだから。ばあやさんもいたんだけど、叔父の面倒を見る人が誰もいない。「キクちゃん留守番してくれないか」って言うから「うん、いいよ」って。行ったらご飯代、助かるし。厳しかったのよ。年中、行ってた。だからバレエ団の人達とも仲良くなって。住む所もないもないみたいなダンサー達がいっぱいいた。
― お嬢ちゃんばっかりじゃないんですね。バレエやるのは。
あの頃は違う。踊りはしたいけどもお金がないから、アルバイトしながらやったり、下宿代払えないから渡り歩いてる女の子とか。今、大金持ちと結婚して結構な暮らししてるけど。そういう女の子達がいた。だから稽古場へ行ってもぼろぼろな股引で。タイツの代わりに股引を履いて踊ってるし。面白かったよ。
― そこでは衣裳の仕事は?
手伝った。そのときはデザインじゃない。くっ付けたりヘム(生地の端)縫ったり。叔母さんに言われたことを手伝った。でもそれで全部覚えちゃった、バレエは。お稽古場に行けばデッサンいくらでもできるじゃない。クラシック・バレエの体の動きなんて、最初は全然、分からなかった。でもあそこへあれだけ入り浸ってたら、分かるようになる。みんなが何で困ってるかとか。あの時代だったら、足が短いとか太いとかっていうのがすごい問題だし。そういうことも含め、裏のことがすごくよく勉強できた。結局又舞台に戻ってきたという。河童が来ないかって言ったことと、その間に関西オペラの創立メンバーに入ってたこと、それから中西さんと一緒に大阪にまた劇団をつくったんだよ。オペラとは別にかもめ座っていう。それに松本典子が、試験を受けて入ってきた。この前、亡くなった、民藝の松本典子。文学座の飯沼慧さんもそのかもめ座に受けてきた。小島慶四郎(松竹新喜劇)もいた。
― 面白いメンバーですよね。
舞台衣裳へ
―衣裳をやりたいと思ったきっかけは?
学生時代に[レオン・]バクスト(注8)の画集を見たせい。これははっきりしてる。古本市でバクストの本を見た。あの本、買ってくれって学校に頼んだんだけど学校で「よう買わん」って言われた。忘れられない。4万円(当時)だった。
― 戦後すぐですよね。ものすごい値段ですね。
すっごい綺麗な本だよ。今の印刷と違う。版画の上に手刷りの色が付いてるのかな。でも、何しろ原画よ。それを見た時、芝居って舞台衣裳とか舞台美術とかっていっても、まず役者と思うじゃない。でもそうじゃなくて、演出とか美術とかで構成されてるって。そのことにすごい感動しちゃったんだ。ディアギレフのグループを知って。私は美術をやってたから、こういうことができるんだと思ったわけ。何とかあの本、買ってほしかったけど。買ってくれなかった。どこ行っちゃっただろうなと思う。あの本。
― そりゃ大富豪しか、買えません。純然たる骨董本ですよね。
骨董本でしょ、もちろん。今の印刷されたものとは全然、違う。あれの原画の本なの。すごい厚い。茶色い紙。
― 国会図書館あたりに行ったらあるかも。
あるかな。日本にはないかもしれない。フランス行けばあるかも分かんないけど。その頃、私1カ月500円しか小遣いもらってない。電車賃として500円もらってた。京都と茨木と往復してその後、市電に乗るには十分。だけど、それでももしお金持ってたら買う、買っちゃう。あれがきっかけなの、私は。それでバクストってどんな人だろう、ディアギレフのバレエ団ってどういうんだろうっていう興味を持ったわけ。学校出てから桃チャンとこに留守番で行ったでしょう。ディアギレフのバレエ団は、パリでもってディアギレフが死んだ後、ばらばらになって世界各地に散ったじゃない。その影響下にあったのが戦時中の上海で活動していた「上海バレエ・リュス」。
そこに入り浸っていた日本軍部の諜報部の人がいた。言ったらスパイなんだろうな。その人が谷バレエ団のマネージをやってた。彼がすごくいろんなことを教えてくれた。私が、ニジンスキーの『薔薇の精』の衣裳なんて、あんなものちっともよくないとかいろんなこと言うと、あの人は女性でも男性でもないから似合ったんですよとか、なんでも全部教えてくれたの。その人は、最後は悪いことして谷バレエ団のお金を持って逃げちゃったけど。でもそのおじさんに私はかなり勉強させてもらった、教えてもらった。
スタッフ・クラブ
第1回イタリアオペラ[第一次イタリア歌劇団1956年]っていうのを東京でやったじゃない、それがスタッフ・クラブの第1回。
その前に話しておかなきゃならないんだけど、河童が私を呼んだけど1年仕事がなくって、1年経った頃に連れてった先がクリちゃん(栗山昌良)だった。栗山さんが『パリアッチ』、『カヴァレリア』のオペラの演出をしたの。そのときにクリちゃんと巡り合った。
そうして、第1回イタリアオペラが来ました。イタリアのマネージャーが付いて、寄せ集めの歌い手だけど。大引っ越し公演だった。それを読売新聞とNHKが協賛でやった。そのときに日本側スタッフを集めなきゃならない。舞台監督と演出家と美術はもちろん全部イタリア側。原画が送られてきてそれを日本の劇場に当てはめなきゃならない。衣裳もそう。衣裳は、全部は持ってこられないから、日本で作らなきゃならないわけ。その日本側スタッフの中に、おめえ入れっていうわけで。私はNHKへ通った。音楽にも、向こうの指揮者、副指揮者に加えて裏が付かなきゃならない。それで岩城宏之とか外山雄三とか。藤原歌劇団の棒振りやったフクヤマ福永陽一郎さん。そういう人達がみんな付いてたの。その時のスタッフが集まって、スタッフ・クラブをつくろうってことになって。二期会も藤原も、両方とも歌い手だけでしょう。誰もスタッフいないじゃない。だから、これだけ集まればできるからスタッフ・クラブをつくろうって、旗揚げしたの。平均年齢が24歳だった。
1986年6月「イタリア歌劇団来日公演」を日本の劇場にあうように改 訂した。NHKの一室を舞台美術デザイン室にして、交替に仮眠をとるような過酷な連日だった。チーフの 河童さんは縞柄のアロハシャツ。緒方規矩子(右から3人目)がアシスタントとして参加した。
― 面白い時代でしたね。
岩城さんも外山さんも20歳か21歳。N響の影棒のようなことをやってた。
― 年齢からいうと学生ですよね。20歳って。
学生だったかは知らない。一番年上は新聞記者の人でした。私はその次ぐらい年上。28ぐらいだった。
京田カンパニーというオペラカンパニー、京田さんていうプロデューサーがいたの。オペラ大好きな変なおっさん。赤字ばっかり、もう大変なおっさんだった。そこに佐々木忠次もいたの。スタッフ・クラブをつくったときに私と佐々木忠次は一番、先物買いって言われた。海のもんとも山のもんとも分かんない。私は来たばっかりでしょう、東京で作品をやってない。先の『カヴァレリア』と『パリアッチ』とか急遽やらされたバレエとかしかやってないでしょう。佐々木忠次はつなぎの服着て、とんかち付けて。手帳持って、マネージメントと舞台の舞監と両方一緒にやってたから。2人は先物買いって言われた。だからダブ(佐々木さんの事)とは仲良かったの私。
― ダブって言うんですね。
ダブ。だぶだぶのつなぎが。それともう一つ、実は人に言えない内緒のダブがあるんだけど。(笑)
そんなふうにしてそれでスタッフ・クラブができてから、順風満帆じゃないけど毎月オペラの仕事があった。日本のオペラは全部やったんじゃないかしらと思うぐらいやった。オペラ年鑑を見てみたら分かると思うけど。あの頃の私達はすごかったです。
― 緒方先生のほかは、河童さんが美術で入っていたんですね?
他に照明で石井[尚郎]さんっていう人がいて、その方は途中で結核で亡くなったの。吉井澄雄(注9)は、劇団四季のほうだったから。吉井澄雄は、「僕は悔しくて、指くわえて、悔し涙にむせんでましたよ」とか言ってるけど。そんなことないよね。劇団四季で。沢田[祐二]さん(注10)っていうのが、石井さんのアシスタントだった。石井さんが亡くなったから沢田さんになった。
― スタッフ・クラブはどのぐらい続いたんですか。
うーん。随分、続いた。最後の頃には、観世榮夫さん(注11)もスタッフ・クラブのメンバーだったし。すごい膨れ上がってたよね。何年ぐらいだろう。36で結婚してるんだ。36だから8年か。8年ぐらいは続いた。7、8年、続いた。佐々木さんとの分裂がスタッフ・クラブの分裂の始まり。東京バレエ団、あそこを彼がつくったことで、みんな、じゃあ解散するかっていうことになって。
ガチャコの由来
本当はガチャンなの。知ってるでしょう。関西ではみんなガチャンで。ガチャコは河童が、東京じゃガチャンって言えないと言う。だからガチャコと呼ぶけどいいかっていうことに。でも私、嫌いよガチャコっていうの。ガチャンっていうほうが好き。美大時代の友人のウノさんもケイタロウもみんないまだにガチャンって言って電話かけてくる。
私、デッサンすら知らないで美術学校に入ったから。木炭で描くっていうことも知らないで、イーゼルで普通の木炭のデッサンをする大きさの紙があったじゃない。それを鋲で止めてそれでやるでしょう。そんなことも知らないで入ったから。そこにあった大きなイーゼルにおっきな日本画の仮張りを立てちゃったの。日本画の仮張りって襖1枚分あるの。一間。それにちっちゃな紙を立てて描いていて、ぶっ倒したの。みんなのイーゼルもバタバタバタ。
― でガチャンって?
それもね。パンで消すでしょ、木炭を。パンなら何でもいいんだと思ってクロワッサンを持ってった。バターが付いちゃったらもうアウト。
― 油染みだらけ。
消してもこすってもどうにもならない。がりがりやってて、ばしゃん‼って。次の日、行ったらガチャンって書いてあった。そっからガチャンになっちゃったの。でも私ら本当いったら、もっとひどいことやってるんだよ。京都の労働会館の天井に穴、開けてる。
― なんで?
照明の人のところへ行こうと思って天井裏を歩いていて……。
― 足、踏み外した?
大丈夫だと思って踏んだら、昔の天井は段ボールみたいなものだった。照明の人のところへ行くので細い板の上、歩かなきゃいけない。ひょいと足、下した。ずぼっと。落ちてたら死んでるかというような大怪我。労働会館に芝居を観に行く度に天井見て、まだ開いてるわって。(笑) 直してくれないんだよね、何年間も。
― 誰も気が付いてなかったということは?
そうじゃないの、貧乏だったんで。
― 仮板を置いとくということすらしなかった?
紙でも貼って注意とか書いといてくれればいいのに。武勇伝じゃないけど、本当に何にも知らないで入ったんだ。あの学校はよく私を入れてくれた。
― でも先生、絵、好きだったんですもんね。そういう専門的なことを知らなかっただけという。
だから鉛筆で描くしか。あと、クレヨン。知らないの、クレパスとかパステルとか。本当のパステル画なんか知らない。クレパスだよ。小学校の。それしか知らなかった。
― 一番、最初のデザインは?
一番、最初は、上演なんかされてないけどバレエの衣裳を描いた。1年に一遍、美術学校の中の展覧会があって、作品を発表しなきゃいけない。それに出したことがある。だけど先生が、「僕はこういうの分かんない」と言った。そっかしょうがないやと思ったけど。それが一番、最初かもしれない。ドビュッシーの『月の光』。自分が勝手に振り付けを考えて、衣裳も全部、考えて。それで桃チャンに見てもらった。あの頃は芝居よりかバレエのほうが好きだったかもしれない。しょっちゅう見に行ってた。
劇団に勧誘されたのは、大学に入ってすぐだった。最初やったのは『修禅寺物語』。衣裳のデザインはしてない。着物を着せられるままに着せてもらって。楓をやった。
衣裳のデザインの勉強
― 衣裳のデザインはどのように学んでいったのでしょうか。
独学です。誰にも教わってない。あと、実地。
― バクスト先生ぐらいですか。神様みたいな。
神様。あの人いなかったら私はこうなってない。だってこんなことが、自分の生涯をかけて仕事になるのかなんて思ってもみなかった。バクストの作品を見たときに、それに生涯をかけていいと思った。でも、生涯かけてもあそこまでできない。実際できませんでした。数はやってるけど。今でも尊敬してます。あの人は舞台装置もやってるから、美術全般でしょう。あの史観の素晴らしさなんてもう本当に……。私、森田さんからもすごい影響、受けた。森田さんのモダンダンスから。それまでにも石井漠さん(注12)とか観てるの。桃チャンが石井漠さんの妹さんの、石井小浪の弟子だったから。関西へ行く前から美術学校へ行く前から、踊りの発表会とかそういうのに行ってるから。変な踊りも踊ってたからね、 変な家よ。
― モダンダンス?
グロテスクな踊り、お化けみたいな、妖精みたいな、そんな。動きやるじゃない。でも、面白くてしょうがなかった。でもその頃は衣裳やろうなんて思わなかったけど。
海外研修
― 海外に行ったりなど、実地で学べた経験はありましたか。
あるけど、どういうふうに言ったらいいのか分からない。初めて文化庁で行ったときは、海外のシステムを見て絶望した。システムが全然違う。劇場でものをつくるっていうのはこういうことなんだって知ったとき、絶望した。
― いまだに変わらないわけですね、それが。
みんなそうでしょう? 向こうでのやり方だとか、具体的にいろんなものを見れば見るほど日本の現状にがっかりする。でも一方フランスでも、ものすごい貧乏劇団も知ってる。日本の自立劇団みたいに自分達で寄せ集めでやってる。そういうのを観たらまたこれで心強いし。やっとるなと思う。風俗とかそういうのはいろんな国を見れば誰だって勉強する、勉強というより覚えてくる。そういうことはあるけど、具体的に舞台衣裳を一つの作品にしていくということではやっぱり絶望してきました。海外に行って。
自分のやり方でしか、日本のやり方でやるしか仕方ない。ボートシアターみたいに自分で縫う、自分で描く。でもそれはそれで面白い。自分は日本のやり方でやらなきゃしょうがない。いくら羨ましくても。そういうふうに思いました。
― オペラ、バレエ、コンテンポラリー、演劇、衣裳の仕事をする上で、違いはありますか。
全然、違うわよ。それは、体を使って表現するのと、言葉で表現するのとの違い。伝統的なものと新しく作品を創るときの取っ付きの仕方は全然、違う。考え方が。それはしょうがない。
― 先生が一番、中でも好きだったジャンルは?
そんなもの差はない。みんな面白い。だって体が違うんだもの。体が違ってその体を使って表現するんだから、違ってくるのは当たり前でしょう?全部条件が違います。比べる事が出来ないくらいみんな面白いよ。
ボートシアター
― 次はボートシアターに関して。その始まりは?
もともと志摩明子さんとか、野口英さんとかの古いグループがあったんです。そこの演出家がいなくなっちゃたから、演出してくれっていうことで遠藤[琢郎](注13)に頼みに来たわけ。遠藤が手伝いに行ってるうちに、自分の色に染めていっちゃった。
― そのときはもう既に先生は、遠藤さんと出会っていました?
結婚はしてた。入れてもらったの、あの人達に。
― ボートシアターでの活動は、オペラやほかの仕事とは並行して別にあったわけですよね。作品見てると、そのボートシアターの仕事が重要だったように感じるんですけど。力の入った面白い作品、見ると、大体ボートシアターの遠藤さんの演出が入ってる。
ボートシアターの仕事の仕方は、まずお金がないってことなの。だから全部、自分達で作んなきゃならない、そっからの発想なの。借りるっていうこともできない。やるものが現代ものじゃないから。自分の持ってる、着てるものも使えない。だから自分達で作らなきゃしょうがない。それを作るのがすごい面白かった。
― 分かります!
藤原オペラも初めはそうだけど。
― それの集大成みたいなのが、『夏の夜の夢』のバリ版の集大成でしょうか?そうやって作っていったことがさらに、プロフェッショナルな衣裳づくりの人が入ることによって……
あれは衣裳としては、最初からプロの衣裳家に作ってもらうというのが条件に入ってるから。ボートでやるときとは条件が全然違うの。ミシンも踏んだことないような女の子達。3センチの縫い目で縫ってくる子がいた。そういうの相手にして作ってた。増田の縫い目は3センチ、志摩さんの縫い目は1ミリ。そんなのが寄ってんだもの。どうしようもない。のりで貼ったほうがいいやと思うぐらい。でもみんなよくやってくれたと思う。芝居しながら。
― 劇団ってすごい。
山下なんかよそへ出演して、よその衣裳があまりにひどいのでびっくりしたらしいの。だって、ボートはその人に合わせて作る。そんなことしないじゃない、よそで。大きな新派だのなんだのに行って、与えられた衣裳ぶかぶかだろうが何だろうが、与えられたらそれ着なきゃならないじゃない。山下はびっくりしちゃったみたいなの。「僕は何て今まで贅沢してたんだろう」と思ったって言ってる。ボートはそういう面白さがあった。その代わりお金は、ザルみたいにかけた。だって材料を買ってくるのも全部、自分のお金で。そうして買い集めた古着を使ってやるわけだし。もちろんデザイン料なんかもらえない、工賃ももらえない、そんなのを買ってきた材料費だってくれないじゃない。でもこれ面白いなと思ったら、何かに使えるかなと思ったら買い集めてきて。当てはめて。だから帯1着をさばいて1着分、着物を作るっていう考え方になってくるわけ。
遠藤さんの作品をやったということは、私にはとっても面白かった。どっこもやらないやつをやってるから。
今後に望むこと
― これからの衣裳デザイナーに向けて望むことは?
今のコロナの最中にそれ言われても。何も見えない。どっちの方向を向いてるのか分からない。
新国立劇場ができたとき、もっとオリジナルのものができると思ったけども、かえってよそからの借りもんなんかで公演ばっかりしてるでしょう。それにすごいがっかりしちゃったっていうこと。
それと、今、現在、演劇の方向は見えない。だから、衣裳なんて。上演するかしないか分かんないもんについて何で考えられるの?だけど、昔からの私の考え方は、衣裳のデザイナーは演出家と同じだけ考えなきゃいけない。それと、役者。役者の身体に自分がなってみることがとっても大切だと思う。ダンサーでもいい、役者でもいい、歌い手でもいい、何でもいいけど。その条件、その身体に自分がなってみるっていう、そうやって舞台の上に立つ、人前に立つ。
でも現状では私は本当に分かんない。何を望むかって言われても。何がしたいの今。見えないでしょう、何にも、オペラにも。
私達の時代は、まだ分かって見えてた。追っつくか追い越すでしょう。本物に近いように何とかして本物らしく見えるようにするという。歌いやすくとか、なるべく軽くとか、そういう意味でお金の問題も含めて非常に現実的な条件があった。それと、いかに本物に負けないだけの本物を作るかという、目標もあったけども。今そんなことを言ってられないもの。誰もそんなものを望んでない。イメージをどこまで飛ばせられるの。ジョン・レノンじゃないけど『イマジン』なんて言ったって。イメージ持ってごらんって言いたい。それでも演劇っていうものは絶対、必要だと思う。どんな条件の中ででも。
アウシュビッツの中でお芝居やったっていうのに、すごく感動した。人間が生きていく上で本当に大切なことなんだなって。絶対欲しいと、みんなが欲しいんだなと。それは歌うことであったり、演じることであったり、踊ることかもしれない。どんな表現であってもそういうのは必要なんだと、自信を持って言える。なくなったらいい、なくしていいってもんじゃない。絶対、必要なんだろうと思う。その必要なものをどう表現するかだよね。だから衣裳家とかって限定されると……
衣裳を描いて、衣裳を専門にやってるけども、「やっぱり演劇人の一人だ」と思っているから。とっても演劇っていうものを大切なんだと思ってる。ただ、衣裳家達に言いたいのは、衣裳家が職人みたいになっちゃったら―これは決して職人をばかにするってことではないんだけど―ただ、そこだけ丁寧にやってればいいってもんじゃないってこと。演劇がどういうものかということも、衣裳家も演劇に参加しているんだということも、確信を持ってやらないと駄目よ。自信と責任。
― 作品に取り組むときに演出家と同じだけ考えるっていうことにつながってくるわけですね。
役者と役者の立場、苦しみとか恥ずかしさとか、いろんなコンプレックスとかもっと見せたいとかいろいろなものをごちゃ混ぜに持ってるじゃない。それを演出家が統一して整理してくれるんでしょうけども。でも、それの手伝いを衣裳もしないといけない。一緒にやらないと駄目。一緒になって、板の上のものを一緒になって創る人間になりたいと思う。それは照明家だってみんなそう。往々にしてお客さんも含めて、芝居は役者だけで出来てるみたいに思うのは、違うもんね。そこに関わっていかないといけない、衣裳家も。
日本舞踊の衣裳
― 日舞の衣裳をやることになったきっかけは?
スタッフ・クラブに芳次郎さん(四代目花柳寿輔)(注14)がいて、皆仲良かったのよ。芳次郎さんが花柳若葉さん(三代目壽輔)、橘芳慧さん、花柳寿美(三代目)さん達をつれてきて。で、そんなこんなで知り合って。最初は芳次郎さんに頼まれて花柳の衣裳をするようになって花柳宗家の会で花柳寿楽(二代目)さんが演出なさった時、松竹衣裳の伊藤久雄さん(武原はんの専属衣裳係)を訪ねるように言われたの。
― あの世界の人とつき合うのは大変だったのでは?
そうよ、最初は馬鹿にされたわよ。学生のわからないのが来た、って。衣裳と言ったって作ってくれない。ゴミの山だっていわれたもん。日舞では使えなくても他のものに使えると思うでしょ?だってお金がないっていうから安く仕上げようと思うでしょ?で、群舞のススキの穂がゆれるのをありものの衣裳にナイロン紗かなんかを縫い付けて作ろうとする。でも日舞の衣裳さんってそんな素材つかわないじゃない。あの人達、衣裳っていえばまず絹でしょ。こっちだって予算が充分なら使いたいわよ。
踊りって物語があって沢山出て来てセリフもないから、そんなの一人ひとり描くの大変じゃない?だから絵巻物にして描いたの。主役がここで、囲いはこんな風で、描いてもっていったら皆とても喜んでくれた。すぐ理解してくれた!それで久雄さん親しくなって。壽輔さん(三代目)の衣裳で、あの人背が高かったのよ。戦国時代が舞台だから裾をひかない。ありものだと丈がたりない。新たに染物で作るお金がない。と言われたので考えてね。古いカケがあったから松皮菱を裾全体に入れる。下部を松皮菱様に切って、別布の松皮菱をはめ込んで丈を長くする。終わったら、また元に戻せるでしょ?それで見本をつくって。徹夜明けて。髪はくしゃくしゃ、目やにだらけで打合わせに行ったの。朝、染屋さんと打合わせてその日に染まるらしいのね。で、そこへ行って。説明していたら、ヒサオさんが「緒方さん、もういいよ」って。で、染屋さんに「間に合うかい?」って。予算無視よね。それから「眠てねぇんだろ?」ってきかれたから「ウン」って言ったら「オイ!鰻とってやんな!」
― で、鰻食べて帰ってきた?
そう。それから久雄さんが私の言う事聞いてくれるようになったの。それとねぇ、ある日、久雄さんと打合わせしてたのよ。で、久雄さんが出して来る衣裳がどれも気にいらなくて。違う。違う。麻かなんかで手描き風で、龍か雲の模様なんてない?って粘っていたら、むこう向きで仕事をしていた職人さんが「オイっ」って振り返って「〇〇段目の棚の右から〇〇目の、もって来てやんな。」って。それがこれなのよ。画像これが欲しかったのよ!ってわけで。何者だろう?って思った。衣裳のあり場所が全部頭に入っているのよ。で、あんなこわい久雄さんが「はいっ!はいっ!」って言うのよ。後できいたら久雄さんのお父さんで、伊藤亀太郎さん。片目の亀さんって呼ばれていて、とても偉い人だったの。三人息子が居て久雄さん、静夫さん、もう一人で伊藤三兄弟って言われていた。
― ヒデオさんだったりして。観世三兄弟(笑)
で、それから久雄さんが私を信用してくれるようになった。
― 日本舞踊協会の公演もやっていたでしょ?海神別荘なんか。
そう、村人なんかは、きまり物が多かったけど鮫軍団は作った。それよりずーっと前にはね、文化庁でイタリアへ留学する直前だったと思うけど。面が顔から離れなくなるって話があるでしょ?それと他の民話なんかもミックスした話で戦争の後に死体から着物をはぎとる女の役を吉村雄輝さん(注15)がやったのよ。あの頃腰巻なんてしないでしょ?着物を重ね着してね。
そしたら、「いや私腰巻きなしで舞台に立つの初めてだわ。」ってものすごくうろたえはった(笑)そうそう芸者さんにタイツをはかした事もあった。大阪の色街の踊り。ホラ、京都の“都をどり”、色町の。芳次郎さんが振付で。売れっ妓の芸者さんに和紙で大口袴を作ってはいてもらうので、下はタイツ。切り込みを深くして、ガバガバとしたの。面白いでしょ?そしたら「旦那に叱られます」って泣かれた。「どうしよう?」って芳次郎さんにきいたら「いいわよー」って面白がってた。衣裳については保守的な人が多いでしょ?橘芳慧さんが若手の舞踊家達、徳彌(吾妻)ちゃんとか由歌(水木)ちゃんとかを振付けた時は、マハーバーラタ(ボートシアター)のウタクに着せた様な衣裳で肩を出して裾をひかせた。
©︎ 撮影:岡本央
― 舞踊手がいやだっていったの?あんな綺麗な首、肩、腕をしてるのに?
彼女達は誰一人いやがらなかった。女流のお偉い方々がね。皆、あっ気にとられたみたい。寿南海さんには面と向かって「日舞じゃない!」って言われた。でも他からは何も文句言われなかった。
あの方達は袖を持って踊るのが日舞だと思っているのよ。振付の芳慧さんは「いいでしょう」って言っているのにね。だから、「あらそうですか?先生のリサイタルの時もやりましょうか?」って言ったら絶句してたわ。(笑)なんであんなに戦々兢々としているのか解らない。まあ、日舞はかつら屋さん、顔師さん、衣裳さん等の関係の中で成立しているから、がんじがらめなのね。でもそこから離れなきゃだめ。新しいものなんて生まれないわよ。
昔よく芳慧さん達が言っていた。「バレエは良いわよね。お客さんが切符を買って作品を見に来る」って。日舞は温習会やって身内が見に来て、目的の人が終るとサッと帰る。「踊り」で客を呼べないって。
― 今は変わって来ていますけどね。一般的にあの人の踊りを見たい!となるのは、その舞踊家の作品を見たさに観客がくるのは、八千代(井上)さん、半(【?(⑧4行目】原)さんなんかそうだったけど。外車、高級車が並ぶ世界ね。
そうね、それだって一般的じゃない。一般の女の子があーすてきって憧れて入って来る世界じゃない。
昔は日本音楽集団とか、それに協力する人達がいたじゃない?最近あんまりそんな話きかないわね。運動としてやるような人達。今、昔、もっともらしい事言ってたら、ものを自由につくろうとはならないよ。やっぱりお金がないところからやらないとダメネ。本当にやりたい!って人が集まらないとものは始まらないわね。同志として集ってやっていく、って所からやるんじゃないと。今のように何かに乗っかってっていうのはできないわ。私もかなり日舞の世界に深入りしたけど、ここで自分の一生をやっていこうとは思わない。
衣裳と舞踏家
― 衣裳と踊り手の関係は?葛藤はない?
あるわよ。先刻話した芸者さんの話とか、大ひんしゅくの話とか。でも踊りの人っていうのは桃チャンを観てても、妹を観ててもとにかく踊りたい、踊らずにはいられない人なのよ。桃チャンなんて子供の頃薄いキレがあればなんでも頭にのせて踊ってた。雑巾でものせたって(笑)日本最初に入って来たバレエがクラシックでなくドイツのモダンダンスだったのは偶然のなり行きもあるけど、着物でガンジガラメにされていた肉体が自由を求めたって事も大きいと思う。当時イザドラ・ダンカンなんて大スターもいたし、東勇作さんとか石井漠さんとかトーガ風の衣裳の写真残っている。クラシックが本格的に入ったのは、上海バレエ・リュスにいた小牧正英がスコアと振付を持って戦後日本に帰って来てからよ。貝谷八百子、谷桃子、松山樹子も皆すでにダンサーとして名をなしていたけど、皆ここに習いに行ったの。
― でもモダンで自由な肉体を手に入れた人達が、なんで又、制約の多いクラシックに?
サー、やっぱりロマンチックだしネー。
― モダンの人との葛藤は?
自動車のチューブでダンサーの体をグルグル巻きにした事がある。ダンサーは体でものを言いたいわけよ。でこっちは衣裳で助けないようにして「言ってみろ!」と。ダンサーは「じゃ言ってやろーじゃない」って。面白かった。両方で面白がってたわよ。その時の音楽が確か諸井誠さんで、確かこの時が縁でこのダンサーと結婚したのよ。私結ぶの神よ。
生のチューブを所々さいたり開いたりしてね。ダンサーとの闘いね。ダンサーは制約があればあるだけ表現の仕方を考えるし。モダンはね。
日劇ミュージックホール
― 日劇ミュージックホール(注16)もなさったのでしょう?
佐藤信(注17)がミュージックホールの演出をした時に誘われたの。ミュージックホールは、6ヶ月間同一演出家がすることになっていて、それが初めで、竹村類さん演出のものとかもやって1984年に日劇ミュージックホールが終わるまでとびとびだけどやっていた。
― いろんな豪華なメンバーが台本書いたり演出したり、振付したりしていましたよね。
そう、皆プライドが高くてキチンとしていた。ヌードさんはストリッパーとは違うのよ。一枚ずつ脱いで行くのがストリップね。ヌードさん達の楽屋入は早いの。まずお風呂に入って、パンツやブラジャーの跡を消すの。それからゆったりした楽着になる。男が出来たらすぐ分かるっていわれる。キスマークがついたり傷がついたりするでしょ。皆すごく真面目。夜遊びすると体が崩れるからってしない。酒も体が崩れるし。でも1日何ステージもあって合間に次公演の振付けの稽古もあって、ものすごくハードだから遊ぶ暇もなかったと思う。バタフライは秘伝中の秘伝。各人が専属の縫子を持っていて。ほら、体は皆微妙に違うでしょ。どれだけ脚を上げても大丈夫って幅もちゃんと決まってて。たまに素人、つまり映画で名の売れた娘が出たりする。知名度は高いけど。でも皆、絶対に風呂の事やバタフライの事は教えないらしい。
― 知りたければ盗めっていう?
そう。私もそれ聞くんだけど。不思議でしょうがなかったのよ。なんであんなに綺麗な脚でいられるの?って。東宝の他の舞台でヌードさんが出た時、バタフライの所にブドウの房をつけたの。ビキニが、明らかに見えるのいやでしょ?そしたら三人出たんだけど皆少しずつ横にずらすの。「真中にして」って言ったら、ストリッパーに見えるから嫌」だって。すごいドレスを作った事もあるわよ。首の方まで詰めて、手袋もしたロングドレスに旨・お腹あたりをハート型にくり抜いて紗を張って。ものすごく喜んでくれた。デザイナーが緒方さんだと出演者が喜ぶっていわれた。私達を綺麗に見せてくれるって。だって本当に綺麗なんだもん。綺麗に見せたいわよねー。男のデザインだと、どうしても男の目線に向けたものになる。劣情を刺激するというか、女の眼からすれば綺麗じゃない。客は普通のサラリーマンが圧倒的だった。
そうだ!刺青した事もあるわ。タイツみたいな薄い布にこの腕から太ももまでの捻刺青の肉襦袢にフンドシ。評判よかった!他ではできない試みが色々出来て面白かった!居心地も良かったし。ギャラは良くなかったけど(笑)金に替えられるか!って。
昔、東宝でもミュージックホールは出世しないっていわれていた。でも、ここのスタッフから演出家や東宝の制作のおエライさんが出ているのよ。
公益社団法人 日本演劇興業協会っていったかしら?そこから表彰されたことがある。石井ふく子さんと二人。「どういう協会なんでしょう?」って言いあって。それに推薦してくれたのがかつてのミュージックホールのスタッフで、東宝制作部のおエライさんになっている人。
私、バレエでも日舞、芝居、ミュージックホール、なんでもやるでしょう。ケジメをつけないでなんでもやって、廊下でのり付けしていたり、直しやっていたり。そんな姿を見ていてくれたのね。プロ中のプロの集団が選んでくれた。嬉しかったわ。
注釈
注1)木下順二(きのしたじゅんじ 1914年-2006年) 劇作家、評論家
注2)宇野重吉(うのじゅうきち 1914年-1988年) 俳優、演出家、映画監督
注3)岩田直二(いわたなおじ 、本名木下正三 きのしたしょうぞう1914年-2006年) 演出家
1957年の関西芸術座創立以来、演出を担当。関西の新劇の中心的存在であった。
注4)杉本秀太郎(すぎもとひでたろう1931年-2015年) 仏文学者
生家は京呉服商「奈良屋」。主な著書に、『洛中生息』、『文学演技』など。訳書にボードレール『悪の花』、『音楽のために ドビュッシー評論集』など。国際日本文化研究センター名誉教授、京都女子大学名誉教授、日本芸術院会員。
注5)白井鐵造(しらいてつぞう 1900年-1983年) 演出家
注6)楳茂都陸平(うめもとりくへい 1897年-1985年) 日本舞踊家
注7)三林亮太郎(みつばやしりょうたろう 1908年-1987年) 美術家
築地(つきじ)小劇場で吉田謙吉に師事。松竹少女歌劇のレビューを担当し、欧米の風潮を先取りしたモダニズムによる舞台美術を展開した。新築地劇団並びに新日本舞踊などの装置も手掛けた。帝国美術学校(現武蔵野美術大学)工芸図案科講師に就任し、日本における最初の舞台美術講座にあたる「芸能デザイン講座」を開設。約50年にわたって武蔵野美術大学を中心に舞台美術の人材育成を進めた。
注8)レオン・バクスト(Лев Самойлович Бакст 1866-1924) 画家、美術家、イラストレーター、デザイナー
美術雑誌『芸術世界』執筆者のひとり。1900年代初頭から舞台芸術のデザインを行う。バレエ・リュスの主要なデザイナーの一人として、多くの作品の舞台装置や衣裳のデザインを行った。彼の作品は、舞台芸術の枠を超えて、広くファッション界にも影響を及ぼした。
注9)吉井澄雄(よしいすみお 1933年生) 照明家
劇団四季の創立に参加。のちにラジオ東京(現東京放送)テレビ技術部勤務する。日生劇場の建設に参画し、日生劇場技術部長などを歴任。科学技術振興財団(現テレビ東京)演出部長。演劇、オペラ、ミュージカル、舞踊と幅広い分野で照明デザインの第一人者として活躍するとともに、新国立劇場他多くの劇場の建設にかかわり、劇場技術全般を主導した。公益社団法人日本照明家協会名誉会長。
注10)沢田祐二(さわだゆうじ 1935年生) 照明家、公益社団法人日本照明家協会現会長
ミュージカル、オペラ、バレエ、演劇等幅広いジャンルで照明デザインを行う。劇団四季のミュージカルや、オペラ、バレエなどの新国立劇場のオリジナル作品を数多く手掛ける。現代演劇では、読売演劇大賞優秀スタッフ賞を受賞している。
注11)観世榮夫(かんぜひでお 1927年-2007年) 能楽師、俳優
7代観世銕之丞の次男。1949年、観世流から喜多流に移り後藤得三の芸養子となる。のち能楽から離れ、俳優となり映画、舞台、テレビなどで活躍。79年観世流に復帰、演出も現代劇、歌舞伎、オペラなど幅広く活動した。
注12)石井漠(いしいばく 1886年-1962年) ダンサー
帝国劇場歌劇部の第一期生。G・V・ローシーにバレエを習う。1916年に山田耕筰の移動劇団「自由劇場」に参加する。渡米から帰国後の1926年、東京都目黒区に石井漠舞踊研究所を開き、創作舞踊の指導を行った。
注13)遠藤琢郎(えんどうたくお 1928年-2020年) 劇作家・演出家
画家として活動していたが、ラジオ、オペラ、ミュージカル、舞踊、人形劇、 演劇などの脚本ならびに演出家に転向する。横浜の運河に浮ぶ木造船内を劇場とする、横浜ボートシアターを結成。多摩美術大学映像演劇科、日本オペラ振興会、オペラ歌手育成部、桐朋音大演劇科などで講師を務める。横浜ボートシアター代表。
注14)四代目 花柳壽輔(よんだいめ はなやぎ じゅすけ 1931年-2020年) 日本舞踊家
四代目花柳芳次郎の長男。36歳で五代目花柳芳次郎を襲名、テレビや舞台の出演、また宝塚をはじめとするさまざまな公演の振付や演出を担当した。のち四代目花柳壽輔を襲名し、四世宗家家元となる。2016年二代目花柳壽應を襲名。古典を重んじながらも、勢力的に日本舞踊の創作公演を開催した。日本芸術院会員。
注15)吉村雄輝(よしむらゆうき 1923年-1998年) 上方舞、吉村流の4世家元
ピーター(池畑慎之助)の父。上方舞吉村流2代家元吉村ゆうに入門し、1961年吉村流初の男性家元(4代)となる。新作の発表の一方で、古典作品の掘り起こしや復活にも力を注いだ。人間国宝。
注16)日劇ミュージックホール
1952年から1984年に閉鎖するまで、東京都千代田区有楽町の日本劇場5階にあったミュージックホール。
注17)佐藤信(さとうまこと 1943年生) 劇作家、演出家
アンダーグラウンドシアター自由劇場を創立。演劇センター68(現劇団黒テント)設立に加わり、中心的な演出家、劇作家として、日本全国で上演活動を展開する。独自の幻想的文体によって社会や歴史を批評する戯曲を執筆。2017年、近隣アジア諸都市の表現者とともに行う活動拠点として、「若葉町ウォーフ」を開設。
2020年12月29日 @緒方規矩子氏アトリエ
2021年10月以前 @緒方規矩子氏アトリエ
聞き手:西原梨絵、古屋和子
プロフィール
緒方 規矩子
緒方 規矩子
OGATA Kikuko
衣装
東京府日本橋生まれ。京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)図案科に学ぶ。在学中から演劇に傾倒し、クラスメートの田中一光や粟辻博等と「アトリエ座」という学生演劇団に参加。美大卒業と同時に新たな劇団「喜劇座」を起こす。鐘紡勤務をへて、舞台衣裳デザイナーとして1952年、関西歌劇団の『椿姫』でデビュー。以後...