緒方規矩子(BUVILE ー舞台美術家への道ー)Vol.1/2015年2月8日
仮面と人形
ー斎藤 1975年に海外公演も行ってらっしゃいますね。
緒方 「太陽の手」という劇団だったんです。つぶれちゃいましたが『夕焼けぐるみの歌』もやったんですけれども。
ー斎藤 御本[緒方規矩子『舞台衣裳のデザイン』(六耀社、2000年)]にはバレエと書いてあったんですけど。
緒方 これ、バレエじゃないんです。ただね、『極楽金魚』は私が人形を作っちゃったほうが先だったの。それを見て、人と人形の芝居をやろうと言ったのが遠藤なんです。その頃は粘土でこのくらい[約50センチ]くらいの人形を作って、どういう演出をするということなんて考えないで、ただこの芝居のためにこの人形が生まれてきちゃったというかそういう感じで、先に作っちゃったんですよね。それから彼がいろいろ芝居として膨らませていった。画像ボートシアターの画像をいくつか
ー斎藤 前から人形を作っていらっしゃったんですか。
緒方 私は仮面を作っていたんです。関西にいた頃から仮面を作って、ダンスで使ったりしていて。それも目的があって作ったということから始まったわけではなく。作りたかったから作ったそれを、舞踊家がこれを付けて踊ってみたいというふうに言い出したというところから始まっているわけ。使うか使わないか分からないで展覧会に出した仮面が最初かもしれないな。
ー斎藤 なぜ仮面に興味を持たれたのでしょう。
緒方 何でだろう。仮面というのは、日本では能とか、神楽とか、立派な国宝クラスの仮面があるじゃないですか。でもあれは装飾的なものではないですよね。機能と内面的なもののための人間の顔ですよね。でも私が最初興味を持ったのは全く装飾的なものだったんです。だから顔中羽根で埋めてみたり。レオノール・フィニみたいに銀バエが止まっているような仮面作っている人。ものすごく綺麗ですよ。そういうふうに装飾的な仮面に最初興味を持って作って。人間の顔をどこまで、とかそんなに深刻に考えていないわね。もっと体の続きの装飾みたいに、衣裳の続きみたいに考えた。いつも生の顔が出るのが嫌だったのよね。だって何着たって、顔が生の顔でしょう。顔はお化粧してもあなたの顔よね。顔の比率も変えたいと思うわけ。目がいっぱいくっ付いているとか、鼻がものすごくでかいとか、鼻がなくたっていいとか、[顔半分]から全然バランス変えちゃうとか、そういう発想から仮面やりだしたのよ。ああいう[アトリエに飾られた仮面群みたいに]リアルな顔を、リアルじゃないのもあるけどね。あれはみんなバリの仮面ですけどね。
ー斎藤 これは文化庁海外研修員のときに集めたのですか。
緒方 最初はただ本当に観光客ですよ。バリに行って仲良くなった人が何人かいて、それから何回も行くようになったの。日常生活が日本の芸能の社会と全然違うから、もうそれがカルチャーショックで。だってみんなお百姓さんであったり、学校の先生であったり。だけども踊ったり歌ったり演奏したりすることが全部当たり前なの、日常の中に組み込まれているの、それはそこの村の祭事と関係あるから。今日は自分の村の稲の神様のお祭りだといったら、そこのバンジャールという村組織の人達全員参加しなければならないし、当然のことだから誰かが演奏しなければならない。誰かが踊らなければならない。それは上手いとか下手ではないんですよ。私はその事にちょっと感動しちゃったよね。これに出て賞をもらえば、村へ行くための川に橋がつけられる。だから上手い下手じゃない、みんな参加するの。「橋を造る」ために、下手で笑っちゃうような人だって、本当に真剣に踊るの。
ー斎藤 生活の一部って、そういうことなんですね。
緒方 そうです。
『小栗判官・照手姫』仮面:遠藤啄郎 ・緒方規矩子・八重田喜美子 衣裳:緒方規矩子 ©︎ 撮影:岡 本 央
ー斎藤 1973年の在外研修員で世界11カ国回っている間も、国によって舞台芸術への関わり方がかなり違ったんでしょうね。バリはそうやって生活の一部だけれど、違ったのではないでしょうか。
緒方 ヨーロッパに行ったら立派な職業になっていますよね。日本だったらみんな食うや食わずじゃないですか。だけど向こうでは劇場に就職すればちゃんと立派に一社会人として食べていけるし、劇場に自分の部屋も持てるし、装置家でも衣裳家でもそれは全然待遇も違う。役者だって年金もらえるんです。何カ月間か国立劇場で芝居したら、ちゃんと年金もらえる。フランスの場合だけどね。各国でものすごい違いましたよね。それが面白かったけど。ソビエトは案内してくださる方がありましたけど、あとは全く、飛び込みで。
ー斎藤 飛び込み。それはその当時たぶん珍しいというか、それは勇気の要ることだったのではないですか。
緒方 勇気は要りますよね。でも日本にいるより楽だったな。自由な時間があって、お金があって、芝居とか何でも見たければ文化庁のお墨付き持っていって、「私こういう者ですけど見せてください」と言えばたいてい見せてくれるし。だから私はもっといたかったわ(笑)。今は研修で行ってもとても縛られるらしいですね。2カ所ぐらいしか行っちゃいけないでしょう。
ー清野 申請しておけば場所は何カ所か行けるんですけど。受け入れ先というのをちゃんと決めておいて、レポートもちゃんと出して、という。
緒方 あ、そうだ。私フランスの受け入れが決まっていた。パリのオペラ座の衣裳のチーフの方と、そこの劇場支配人とに文化庁からのインビテーションもらって。それに、ロシアの場合はインビテーションがないとあの時代は渡れなかった。行ってもボリショイ劇場なんて見られないし。本当はレニングラードに行きたかったの。で、モスクワに行ってからレニングラード訪問を申請すればいいと思っていたら、これが大変だったんですよ、国内での外人の移動が。日本から出る前にそれをやっておかなければならなくて。向こうへ行ってからだったからできなかったわね。それで、結局レニングラードには行かれなかったのよ。今だったらとても自由でしょうけどね。
モスクワの空港で東京バレエ学校のワルラーモフさんにバッタリ会ったんです。木村公香さんを迎えに来ていたんですよ。それで私と会って、「え、あなたも一緒ですか」というので「文化庁で来ました」と言ったら、彼が全部やってくださったの。すごいラッキーだったの。こちらの大使館からボリショイへの紹介状をいただいて行ってたんですよ。でもそれだけで行ってたら、もっと面倒だったんだろうと思う。ワルラーモフさんが空港にいたものだから、彼が毎日毎日切符くださったんですよ。ワルラーモフ先生がいらっしゃらなかったら、どんなことになっていたか分からない。ボリショイで何もやらない日は違うところを観に行きなさいと言って、違うところの午前と午後のチケットをまたくださるんですよ。「先生、休ませてください」と言っちゃうぐらい、もう全然お休みないもほど。目一杯見せてもらいましたけど、その代わりいわゆる観光というのはできなかった。それでも劇場の中をずっと見せてもらうでしょう。制作場。衣裳の場から。あそこはすごいですよ。靴まで劇場内で作っている。かつらも小道具も全部を作っている、舞台装置で使っている材料を持ってみんな走っているんですよ。何やっているのかと思うと、それを衣裳に使いたいとか。それからこの色をかつらにしたいと、そういうふうにスタッフがみんな劇場の中を走り回っている。羨ましかったですよ。日本だったら、私が業者へ走るしかない。そして、まずできないと言われる、そんな素材ではできないと言われるね。
例えば装置で「タタミイワシ」って言っている素材があるじゃない。画像あれが出始めた頃だったから、それをいろいろなものに使うんですよ。衣裳も装置も全部一つの劇場の内部にあるから、そういうことができるのね。装置で使っているものを衣裳で使うとか、帽子にしちゃうとか。全部できちゃうのよ。色も合わせられる。
斎藤 日本だと工房が違うところにあるから、話をつけるのもひと苦労ですよね。
緒方 私達の場合、オペラだったら、ザ・スタッフがみんな仕切っているでしょう。「これで作りたいんだけど、装置の素材とか色目を見せて」とザ・スタッフに言うわけよね。親しくならないとできないということもあるでしょう。でもボリショイ劇場ではそういうことはあり得ないんですよ。仕事ですからデザイナーは劇場にちゃんと部屋をもらって、作品が出来上がるまでその部屋で作業ができる。下のフロアで装置を描いている間、上にちゃんと部屋があって、欄干があって、そこから下が全部見えるようになっていて。だからデザイナーが全部終わるまで責任を持つわけよね。だいたいそれはどこの劇場でもあったわね、パリ・オペラ座もそうだけど。ヨーロッパの劇場はそれが当たり前みたいね。例えば外国から呼ばれた装置家とかいるじゃないですか。その人達もちゃんと部屋をもらっている。それでアシスタントが付いて。まずその人達が粘土で模型を作ってくれる。それで今度立体に起こしてくるという一連の作業を全部劇場でやっているわね。システムが全然違いますよ。私達がやりたくても不可能なこと、ここだったらできるんだなと思ったわね。
私、日本で、研修行く前はバレエでも日舞でもオペラでも芝居でも、全部やっていた頃なんですよね。その頃日本にはボリショイ劇場のダンサーが来ていて、パリのオペラ座の人が来ていて、私はその人達の間を走り回っていたわけですよ、両方の仕事していたから。東京バレエ学校の仕事もしていたし、オペラ座のほうの仕事も。イタリアオペラのときは、またパリとはちょっと時期が離れていました。あれはNHKがやっていたでしょう。そのときに「それだけ仕事したら、お前はお城を持っているのか」と言われましたね。本当、お城へ招待したかったですよ(笑)。私のお城来てもらってたら6帖一間だ。大井町の線路沿いの6帖一間。全然扱いが違う。
というより、日本のデザイナーが作るものがオリジナルではなかったでしょう。最初はみんな向こうのものを参考にして衣裳を作ったり、装置を作ったりしていた、オペラでもバレエでも。それを世界に出したら問題になっちゃうでしょう。無断借用だから。 だから世界に通用しないものですよね。私は、下手でもいいからオリジナルなものをとやりだしたんですよ。でもバレエの人はなかなか分かってくれないから、結局元へ戻っちゃう。ビデオ見てくださいになっちゃうんです。だから全然興味なくなっちゃったんです。
本当に自分達で創ろうとしないよ。クラシックのものでそれをやったのは清水哲太郎君ではないかなと。めちゃくちゃお金かかったけど、でもあの人一生懸命自分のオリジナルなものをやりたいと。本当は向こうのオリジナルにお金払わなければいけないものですよ。
でもクラシックの場合難しいわ。だって、例えば『瀕死の白鳥』といったら、『瀕死の白鳥』の衣裳はこう、と決まりがもうあるじゃない。『バラの精』なら『バラの精』のニジンスキーのやった格好って。でそれを見ると、下手でも『バラの精』だと思うわけじゃない。踊りはニジンスキーじゃないけど(笑)。だからとても難しい問題がある。バレエも日本舞踊もお稽古事の続きだね。日本舞踊も決まりがあるでしょう。『道成寺』は『道成寺』の格好をしなければ『道成寺』ではないわけだから。
そこら辺がやはりデザイナーの入れないところ、能・歌舞伎の衣裳はできないところですね。能・歌舞伎の人が古典と違うものをやるときはできるけど、十八番のものをいじくるということはできにくいですよね。ま、この頃、歌舞伎もちょっと変わったのが出てきたからね。でも、猿之助さんほど大胆にやる人はいないわね。
緒方 75年に『極楽金魚』と『夕焼けぐるみの歌』でレンヌとナンシーの演劇祭に参加しました。横浜ボートシアターのできる前です。レンヌのときはフリンジ(小さい公演、小劇場の集まり)だったのかな。確か招待されているんですね。だから本公演というか、どういう形だったかな。何しろ交通費と荷物の運賃とかは自分持ちだけど、向こうの滞在費とか食費は全部向こうが持ってくれるという招待の形があったの。フリンジって主体のほかに周りがあるんですよ。そこがフェスティバルの期間にそういう催しを各劇場とか、村とかがやるの。そこで招待をされて行ったからお金を少し用意して、あと向こうで滞在できたわけですね。それで行ったんです。
外国のお客さんの反応というのはすごい直接的。もう私、感動した、昼間畑耕しているおばさんに、毎日私達は側を通るものだから「こんにちは」と言うようになる。そのおばさんが夜になったらちゃんとドレスに着替えて観に来て、ちゃんと感想を言うの。日本のおばさんは「良かったわ」は言ってくれるけど、ちゃんと感想言わない。子供達だけに観せた日もあるんです。『極楽金魚』を観せた日。子供達が立派に感想を言って、その絵をちゃんと描くの。自分達のイメージしたものを描くんですよ。だからちゃんと観ているんだなと思って。
演劇というものが違うのね。日常生活の中で自分達が何か受け入れるものだというように思っているわね。舞台芸術と日常生活の間に日本ほど溝がない。
子供達に感想を言わせたんですよね。そのときに子供達が一番反応したのは音楽と仮面だったんです。どんなにうれしかったか!要するに仮面を通してお話が分かるわけ。どういうキャラなのかということが、音楽とか仮面で分かるんですよ。逆に分かるんですよ。子供はそうですよ。子供って百面相したから分かるわけじゃない。本当に一つの顔の中に子供はイメージをちゃんと持つんです。
日本の子供に観せたことないから分からないけど。テレビもいろいろ見ていると、日本の子供は着ぐるみとかを見ている。あれは子供は本当に喜んでいるのかな。大人も子供が嘘ついているんじゃないかなと思っちゃう。これは面白いものであるとか、かわいいものであるとか、みんなが約束事で見ているのではないか。本当は子供ってすごい残酷なもののはずですよね。
『極楽金魚』というのは馬の首切って、その馬を埋めて、そこから出てきたウジを飲ませると子供の病気が治ると言われて、一番かわいがっていた馬を殺しちゃうというお話なんです。仮面劇でないとできない芝居ですよね。それでも子供の病気が治らないので、その子供を健康な下女と一緒に裸にして結び合わせて、熱を全部女の子に移す。四国に「奉公さん」人形っていうのがあって、昔から病気の子供に抱かせて、その人形を川へ流すと病気が治るという言い伝えがある。その「奉公さん」というのがテーマになっているの。
それで結局その女の子も川へ流されて殺されちゃう。でも、その女の子が一番かわいがっていた馬とその女の子が極楽金魚になっちゃうの。頂点眼という金魚がいるんだけど、あれは中国で作られたもので、出目金を暗いかめの中で何代も何代も育てると、上を見るために目玉が上に上がっちゃう、そういう金魚が本当にいるの。その金魚と「奉公さん」と馬との三つが一緒になって、天へ上っていくというところでおしまいになる。
ー斎藤 そんな複雑な話を子供は受け止められるんでしょうか。
緒方 そう。とても小さい子達。幼稚園から小学校ぐらいまでの子供達でしたね。でも、ルーブルだって先生に連れられて子供達みんな来ているものね。小さな頃から本物を見るという機会に恵まれている。
オペラの仕事
ー斎藤 先生はオペラのお仕事もたくさんなさっていますね。例えば栗山先生の『三文オペラ』。1978年に上演して、79年に室内オペラの三文で、伊藤熹朔賞を受賞なさっています。伊藤熹朔賞を衣裳のデザイナーが取るのは非常に珍しかったそうですが、受賞前と後では待遇が変わったということはなかったですか。
緒方 あるわけない(笑)。ね、予算変わらないもの。
『三文オペラ』デザイン画
ー斎藤 栗山先生や粟国[安彦]先生(注24)と長くご一緒にお仕事なさっていますが、お二人とのお仕事も会話を重ねていくような感じだったのでしょうか。
緒方 栗山先生とは、『死の都』(2014年)までやりました、全部自分が装置を描いちゃうんですもの。こういうパネルをこうやってとか。それで図面も描けちゃうし。自分が描けないところは装置家の方に手伝ってもらってという方です。だけど佐藤信もそういうところがあるんですよ。装置をやりたがる演出家ってすごく多いの。だけど衣裳は描けないんですよ。
最初、栗山さんと巡り会ったのは、妹尾河童が私を連れて行って栗山さんと会わせたんです。前に話したけれど、それから何本かやったかもしれないけど、ほどなくしてイタリアオペラが来たときに、日本側スタッフというものをNHKが集めたのね。そのときに衣裳のプランナーが1人もいなかったので、私もそこへ入れられたわけです。装置が河童で、演出助手が栗山さんで、音楽のほうで岩城さん、外山さん、林光さんとか、みんな若かったんですけど。平均年齢24歳でした。
それでイタリアオペラが終わったときに、この仲間がみんな分野が違うのにすごく仲良かったものだから、クラブつくろうといってスタッフ・クラブを結成した。自然発生的にできたグループなの。それから栗山さんとはもうずっと一緒の仕事。研修に行ったときに私が1年間いないから、「俺、どうしてくれるよ」というわけで別のスタッフを紹介してたんですよ。その方とも栗山さん何本かやっていますけど、また戻ってきて。彼とは大喧嘩もしましたけどね、仕事はずっと続いています。
粟国さんは藤原オペラをやっていたときの栗山さんのアシスタントで、あの人は歌い手だったんですよ、コーラスのほう。だから音楽分かる。音楽が分かる演出家って、オペラではその頃本当にいなかったの。栗山先生は、絶対言わないんだけど、ヴァイオリンを弾いてたんですよ。バレエも、伊藤道郎さん(注25)のところに行って。言わないの、絶対言わないけど。だから全くの新劇の演出家がやるのとは違うのよ。
新劇の演出家がオペラの演出をやったことありますけど、音楽鳴ったら稽古場から外へ出ちゃうんだから。あとは指揮者に任せて。
ー斎藤 それで棒立ちになって歌っているオペラ歌手が昔はたくさんいたんですね。
緒方 「指揮者を見なさい」って言うんだもの。そういう時代だったわけ。今の様にモニターテレビがないし。
ー斎藤 やっと謎が解けました。何でみんな立っているんだろうと思っていました。
緒方 『蝶々夫人』の演出でもって、アメリカの組合にもちゃんと入っていらっしゃる青山圭男さんという演出家がいらしたんです。ものすごい優しい方で、どうぞお好きなところでって。指揮者の見えるところでないと歌えないじゃない。昔の歌い手は全部指揮者に歌っているわけだから。
客と相手役も放ったらかしよね。歌い手はもう夢中で、楽譜どおりに歌えるか、楽譜に指定されている高い音が出るか。それに対して青山先生はとても優しかった。栗山先生は芝居畑から来ているから、それ許さないわけ。歌っていても動けとおっしゃるし、「何でおまえ、そっち向いて歌うんだ」と。で、芝居として成立するようになった。
ー斎藤 粟国先生とはオペラ『はだしのゲン』(1981年)をなさいましたね。これは衣裳にしづらかったのでは。画像原画あれば
緒方 全部作りましたよ、ケロイドの衣裳。皮膚が剥けちゃってぶら下がっているのも。マネキン人形拾ってきて作ったの。あの頃誰かに拾ってきてと言うと、拾ってきてくれたの。何でだろうね。晴海のゴミ捨て場も行ってくれたし。拾ってきたマネキンにタイツを着せて、ラテックスで描いてメイクって。広島の原爆記念館で見てきたんですけど。そこの状況をどこまで再現できるかって。私の長い衣裳の経歴の中でも非常に印象的な仕事でした。みんなが舞台に出るとき、裏のスタッフはみんな拝んでいましたよ。原爆が落ちた後という設定で舞台に出る人達みんなを裏で作るんですよ。髪の毛が全部総毛立っちゃって真っ赤っかにほこりと焼けた毛とで総立ちになっちゃって。白いものだけが残ったんですよ、光を反射するから。黒いところは溶けちゃったんです。それをみんな作ったんですよ。その子達を舞台へ送り出すときはスタッフは拝んでいました。だって初演は広島の人達がやったんだもの。
2015 年 11 月新国立劇場上演『はだしのゲン』デザイン画
ー斎藤 このときの公演は音響にも力が入っていて、爆発のときの音がすごく本物に近かったものだから、観客が思わず身を伏せたとか。
緒方 はあ。私達にしたらあんなものじゃないだろうと思ったけどね。それは原爆の音なんて再現はできないですよ。経験なさった方にインタヴューして、随分リサーチしたんですけど、本当に原爆に遭った人は「忘れました」とか、「気が付いたときには何も分からなかった」とか話したくないのね。「原爆が落ちて自分が瓦礫の中から出てきたとき、世の中って何色になっていました?灰色でした?真っ暗だった?赤かった?」って聞いても、全部言うことが違うの。だから自分の感覚が赤く見せたり真っ暗にしてしまっているのではないかとか、想像して。みんな言うことが違いましたから。
素晴らしい出演者がいましたよ。コーラスの中というか、ほとんどボランティアで町の人達が出てきて手伝ってくれたんだけど、原爆の後にボロボロになった人々の行列が出たところで、本当に私は考えもつかないと思ったんだけど、こうやって[空を仰ぐような格好で]出てきたの。みんな腕から皮がメイクれて、お腹の皮がぶら下がって。だって帯が下がっていると思ったら腸だったというような状態でしょう。だから原爆館でもみんな肩を丸めてうつむいた格好の絵になっているよね。丸木[位里]さん(注26)の絵(妻・丸木俊と共作の『原爆の国』が著名)もみんなこうだよね。
でも違うの、その人。こうやって[上を向いて]出てきたの、ほとんど骸骨で赤いほこりまみれの状態で。私、あれは考え付けないと思った。その人だって経験しているんじゃないのよ。自分のおばあさんだとか何かから、親戚の人から聞いた話を自分のイメージで作ったんだね。すごかったな。あのときにはものをつくるって、本当にこういうことだと思った。そのものを写すんじゃないのね。その人の中にある被爆者の姿は、あれだったんだよね。
もう本当に人間じゃない、絶望の塊みたいでしたよ。忘れられないわね。あの作品は広島の音楽学校の先生だったと思うんだけど、自分の家も何も全部抵当に入れたり何かして、それで『はだしのゲン』を上演したんですよ。結局、彼は全部失ったみたいですよ。奥さんとも離婚し、家族とも別れることになり、家も何も全部なくなって。
ー斎藤 そのオペラを上演したから。
緒方 そう。上演委員会を彼が広島で作ってやったんですよね。それを見た沖縄の人が沖縄でやってくれという話になって、沖縄に行くことになったの。粟国さんの関係もあったんでしょう。それで観にいらしたんだろうと思うんだけど。沖縄は被爆していないけど、同じような経験を持っているということで。そうなったらこちらも、いくらじゃなきゃできませんとか、そんなこと言えないでしょう。
斎藤 確かに。お金じゃなく伝えていかなければならない。
緒方 その辺で何か食べさせてもらって、寝るところと移動させてもらえれば、あとは何も覚えていないわね。衣裳屋とかに、えらい恨まれたけどね。拘束が長いもの。でもやらねばならないと思ったから、私達も村の人達もみんな。中沢[啓治]さん。ハンカチにサインしてもらって持ってますよ。『はだしのゲン』の著作者、亡くなったのね。もう仲間みたいな意識になっちゃったわね。
ー斎藤 そういうのが舞台芸術の力でもあり、また、だからってそれで興行的な成功と結びつかないところがジレンマですね。
緒方 そうですね。本当は広島の人はそれをアメリカで上演したかったのね。でもオペラなのに音楽的にはちょっと弱かったような気がする。音楽がもっとすごければ再演もできるだろうと思うんだけど、その辺は専門家じゃないから分かりません。再演できないことは残念だけど、もしするとしたらあれ再演するとなると、ケロイドの人達作るだけ、でも戦後の闇市の人達を作るだけでも、ものすごい大変だわ。
坂東玉三郎
ー斎藤 坂東玉三郎さんとも何度もお仕事なさっていて。先生は、玉三郎さんは衣裳を着こなすことをよく理解しているとおっしゃってますね。『椿姫』(1979年)などのお写真を拝見すると、本当に姿形が女性になっていて、これは衣裳がそうなのか、それとも着こなしなのか、それともたたずまいなのかと、全部が一つなのですか。
緒方 やはりそれは彼の努力というか、素直さというか。上野の文化会館でオペラをやっていた時、楽屋へ突然、玉三郎さんが来たの。それで「今度『椿姫』をやりたいと思うけんだけど、僕にはハンディがあるからなれるかどうか、ドレスが着れるかどうか見てくださる?」って[上半身の服を脱いで]。
1979 年日生劇場上演 『椿姫』デザイン画
ー斎藤 その場でですか。
緒方 楽屋で。洋服はもうちょっとこう[いかり肩]でないと駄目だと彼は思い込んでいたの。男役じゃないからいいのよ。特に古典はなで肩でないと、19世紀のトラヴィアータのクリノリンのドレスは着られない。「この[なで肩]ほうが美しいんですよ。だから大丈夫ですよ」ということでお仕事をしたの。私、この人はスタッフ殺しだと思ったわよ。この人のためなら絶対やってあげようと思っちゃうわよ。何とか綺麗に見せよう、絶対大丈夫なように見せちゃおうって思うわよ。思わすの、あの方。それが上手なのかも分からない。
ー斎藤 綺麗なのを描いてこいじゃなくて。
緒方 まず自分をさらけ出す。何とかこの自分を、ドレス着られるようにしてくださいと。役者とプランナーの間は信頼と尊敬が大切と思います。だから今までやったことないコルセット着せたり、ウエストをニッパーでギューギュー締めたり、そういうことも全部一からやっていったんだから。さらにその後の『サド侯爵夫人』(1983年)のほうが服としては大変なのよ。18世紀の、もう本当に絞り上げられたウエストの時代でしょう。男性にはウエストのくびれがない。
ー斎藤 コルセットで締められている。
緒方 ええ、ウエストを強く締めなければならない。でも、本当にそういうのに耐える人だもの。彼は言ったわよ。「日本の芸者をやるのでも、柳の帯を締めて、帯が揺れていたら芸者じゃないのよ」と。芸者は帯を揺らして歩いたりしない。絶対帯がまっすぐに垂れたままで動かなければいけない。それでしなをつくらなければいけないでしょう。それのときに帯が揺れるのは芸者じゃありませんと言うの。
だから座ることも、立つことも、このドレスでやるときにはどうすればいいか知りたいと、聞いてくるの。歩く稽古、座る姿と稽古をして、「見ていて、見ていて」ともう稽古場でこちらも一生懸命ついているわけよ。パニエの具合とかも一緒に考えるから、あの美しさは生まれてくるわけね。
ー清野 すごい。計算と工夫を重ねたんですね。
緒方 そうですね。すごい努力家。その役になるための努力は見事なものです。それと本当にスタッフ殺し。スタッフをおだてるのも上手。その代わり自分もすごい素直に入ってくる、信じてくれるの。だから一生懸命になります。中途半端な役者さんのほうが「私、その色似合わないから」とか、「重い」とか、文句言うじゃない。彼は絶対言わない。
1983 年 12 月サンシャイン劇場上演 『サド公爵夫人』デザイン画
TAKERU
ー斎藤 1997年には新国立劇場でこけら落とし、團伊玖磨さんの『建・TAKERU』をなさってますね。新国立劇場のビデオ・ブースで拝見しました。ヤマトの弥生時代のような衣裳も面白かったんですけれど、途中で出てくる悪者の仮面。怪物がいっぱい出てきますよね。
1997 年 10 月劇場上演 『椿姫』デザイン画
緒方 ああ、あれは「両面宿儺(りょうめんすくな)」という「両側に顔がある化け物」がタケルを惑わしたわけよね。あれは台本を書いた方が、絶対執着していらしたんだから。『古事記』か何かに出ているんでしょう。両面宿儺というのが関東のほうにいたんでしょう、両方に顔があったのが。
斎藤 すごく両面宿儺が印象的でした。
緒方 でしょうね。突然だものね。
斎藤 突然でびっくりして。その前の女の人達の衣裳が土偶みたいな感じで、さらに強調されて。
緒方 ヤマトタケルって侵略しに来た人よね。大和朝廷というのは侵略して、日本にもともといた人達を追い出して、自分達の朝廷、大和朝廷をつくったわけじゃないですか。その前には縄文の人達が住んでいた。いろいろな種族の人達がいたけど……。縄文土器って知っているでしょう?
ー斎藤 はい、教科書に出ている写真は。
緒方 あの人達の文化と、後から来た大和の人達の韓国系の文化とは違うんですよ。だからその違いを出したかったの。ヤマトタケルはそれを追っ払って、大和朝廷のものにした。でも天皇はヤマトタケルが帰ってきたら今度、自分の位が危ないから、天皇は彼を切り捨てちゃったわけでしょう。あのときは土偶とか焼き物とか、そういうものを参考にして考えたんです。
ー斎藤 それは緒方先生が、こうしようと決めたのですね。
緒方 そうですね、全くオリジナルですよね。
違う民族の話なんです。だから大和朝廷というのがもともと日本に古来いた種族ではなくて、あれは侵略者なんだということを分かってほしかったのよ。もともといた人達はもっと違う文化を持っていた。例えば千葉のほうに住んでいる役には入れ墨だらけの男も作ったのだけど、実際九州だとか千葉のほうの海洋民族種の男達は入れ墨で盛んに身体装飾するの。
ー斎藤 それはそういう侵略の歴史があったというところを表現なさったのですね。
緒方 そうですね。分かってほしかったんだけどね。團先生は賛成しようとしてくれました。私は先生にデザインも見せたし、許可も得ましたよ。でもあのときの演出家は予算の関係があって非常に弱体だった。はっきりした方針をくれなかった。
それは團先生に対する遠慮だと思うんですよ。でも團先生って、直接言えば、ちゃんと話は聞いてくださる人。でも團先生は本当に消耗し尽くされて、結局亡くなった。まだ完璧に出来上がってはいないオペラよね。もっとカットしなければ駄目。
私はああいうオリジナルは最初が失敗だからといってすぐ止めちゃうんじゃなくて、何回もやるべきだと思うんですよ。繰り返しながらそれで淘汰していく。外国のオペラはみんなそうじゃないですか。日本は、国立劇場だというのに外国の物まねばかりやっていて、オリジナルなものを大事にしない。すごく悲しいことよね。曲はもちろん、美術から歌い手まで全部向こうの借り物でやろうとしている。それには経済も関わっていて、向こうで出来上がっているものを買ったほうが安いから。一から創るものは高くつく。期間も長いし。
先生はどんなに時間をかけて作曲なさったことかと思うのに、上演したのはたったの3日間ぐらい。良くなるわけないじゃないの。国立劇場はものをつくるという感覚ではないのね。オペラでもバレエでも芝居でも。歌舞伎でもお能でも、ああいう形になるまでどれだけの年数か。それは時間や、演者や観客によって淘汰されていっているものですよ。駄目なものは消える、削っても削ってもやらねばならないものは残していく。残さなければいけないんですよ。一朝一夕ではできるものではないでしょう。
演劇へのシフト
ー斎藤 先生はオペラとバレエと演劇とずっと同時並行で取り組まれていらっしゃったのが、ここ最近は演劇が多くなっているとお聞きしたんですけれども、オペラとかだと体力が必要だからということでしょうか。
緒方 そうです。演劇が多くなっているのは完全に体力の問題です。オペラやバレエは登場人物も多いし、見たことも聞いたこともないオペラを、稽古場に通わないでいきなりデザインすることは出来ないですよ。いっとう最初関西オペラで始めたとき。その頃お勤めしていたんですけど、しょうがないから毎日稽古場に行って聞いたの。またその頃は関西だから朝比奈隆さんが指揮者だったんですけど、これはこうなんだよ、ああなんだよ、この音はテーマなんだよと本当に丁寧に教えてくださった。粟国さんもそうだった。だから私、粟国さん大好きだったの。
だって私、音楽家じゃないからね。「これがテーマです」「これは女の心情が全部歌に表れている。出ているのは男なんですけど、裏に流れている音楽は全部女性のテーマです」とか粟国さんは全部言ってくれる。お稽古終わった後でも夜明けまで飲み屋でしゃべっていたこともある。そういうのがないと、創成期の仕事はうまくいかないですよね。
粟国さんの頃にはビデオはあるし、音楽は聞かせてもらえるし、映像で見られるものもある。ストーリーはちゃんと本で出版されている。自分で勉強しても何かわかったような気分になるの。だけど実際に舞台を見たら全然違うの。音楽で歩いているのと、音楽だけ聞いている、台本だけ読んでいるのとは違うの。そこに何かがあることを実際に見ないと分からない。この間でこの人はこう思って、裏切る気持ちはここからこっちへ歩いてくる間に浮かんできたんだな、なんていうのは稽古を見ないと分からないでしょう。台本に、この間に裏切る気持ちを彼は翻すとか何とか、そんなの書いてないからね。そういうことを稽古中に一緒に見ながら言ってくださる演出家と、全然言わない人とではえらい違いですよ。
だから全然言わない演出家だと、こっちが音聞きながら全部創っていっちゃう。自分が演出しちゃうわけ。だったらこういうものを着て現れたほうが面白いだろうなと思って描いたら、「あ、それ面白いね」とそんな演出家は簡単に言ってくれちゃう。ああ、良かったと思って。そういうこともあるわけ。
ー斎藤 その辺がただ二次元で見ているのと、実際の舞台で着る衣裳の違いなのでしょうね。
緒方 今、私達のやっていることなんてね、スタッフ同士もキャスト達ともじゃんけんしているみたいなもの。じゃんけんぽんとやって、向こうがチョキだったら一緒になったのか。パーだったら私勝ったかなとかって、本当スリルあるよね。舞台稽古のときにうまくいったかどうかやっと確認できる。
ー西原 確かにスリルといえばスリル。戻った、また勝ったみたいな。私戻ったみたいな。
外国研修
緒方 ねえ。本当にそうなのよ。だけどそれこそオペラ座で研修していたときに、羨ましいなと思ったのはそこ。オペラ座が自分の劇場でしょう。夜公演だったら昼間は空いてますよね。そこに次の公演するためのセット組んで、衣裳のおばさんが衣裳を持っていって明かり合わせやって、かつら屋さんが来て、そのかつらも全部その明かりの中で見て、これだったら何とかかんとかと言う。それでしかも舞台稽古が何回かあるんだけど、舞台稽古のときに制作者、縫う人、生地屋とか小道具を納める人とか、そういう人達が2階のバルコニーからリハーサルを全部見るのよ。下でチーフ達が駄目出ししているのを自分で見て納得できるわけ。
日本で「ここのレース白く目立ち過ぎるからちょっと替えて」と言ったら、縫った人はみんな気を悪くするよ。デザインに白と書いてあったじゃないですかと言うの。だけど向こうは実際に舞台上で見るから白だけ目立っちゃっているのが分かるじゃない。業者が全部いるところでやるのだから。
初演の出し物ではなくて。何回も何回もやられたものでもよ。業者達もすごいですよ、バルコニーでディスカッションやっている。下は下で、オーケストラはオーケストラで、メインのスタッフは演出家や舞監とかとやり合っている。それを全部上から見ていて、あれ文句言っているなとか実際に見ているから納得できちゃうの。あれは素晴らしい。照明が暗いだの、あそこきっかけがおかしいとか、バルコニーの業者までが全部言っているよ。
ー斎藤 例えば生地屋さんが照明おかしいとか言うんですか。
緒方 ええ。業者まで言っていますよ。それは出し物が『マノン・レスコー』だったので、何回もオペラ座でやっているから知っているんですよ、よく出る出し物なら業者もよく知っているし。
『エレクトラ』はとても変わった装置と衣裳だったのね。ちょっと手伝いもさせてもらったんだけど、これは初めてのものだから何回も何回も舞台稽古をやってるの。舞台に装置を立ててみて、何分で転換できるかとか試験してるの。そこに明かりも当てて。
ー斎藤 それが日本でできたらどんなにいいことか!
緒方 そう。日本の国立の舞台稽古と全然違う。国立劇場が出来たのだから、利益を上げる場所としてでなく、作品を産み出す場所として誇りとビジョンを持ってほしい。これはパリの例ですが私達の様な外国からの1シーズンだけの研修生のためでも劇場側は劇場支配人の見る席をちゃんと取っていてくれた。だから舞台がこちら[向かって右脇]。オーケストラがあちら[左側]で、劇場支配人はこっち[舞台上手脇]から見るんですよ。中から見るの。だからカール・ベーム(注27)も顔側から見られたの。絶対忘れられない。
こっち[支配人席]から見るとちょっと奥[舞台上手奥]が欠けるんだけど舞台もこちら[オーケストラ・ボックス]も見れて、お客も見れてという劇場支配人のいる場所で、おまえはここで見ろと。
ー斎藤 舞台に従事する人々の地位も高いし、保証もされているからそういう待遇なんでしょうね。
緒方 学生みたいなので研修で来た子に、それだけのことを日本の劇場はしてくれないと思いますよ。ものをつくるという基礎的な考え方が違うんじゃないかな。つくる人達をとても大事にしている、その人達の存在を大事にしているからね。
舞台衣裳デザイナーとは
ー斎藤 そろそろお時間なので、まだまだお聞きしたい話はたくさんあるんですが。先生はヨーロッパから来た舞台芸術を日本でコピーするのではなく、日本のために日本の舞台芸術を築こうという姿勢でお仕事をなさっていらっしゃった。先生にとって舞台衣裳のデザイナーという役割は、舞台芸術の中ではどんな役割だとお考えですか。緒方先生にとって舞台衣裳デザイナーというのはどういうお仕事でしょうか。
緒方 私達にとって一番、何より何より大切なのは好きだという事。好きな事は信じる事。こんなことを言ったらいけないけど、ほとんど絶望していますね、今。私達の頃はお金はないけどチャンスはあった。だからいろいろなことが試せたし、みんなが若くて、みんなが初めてで手探りだったから、私達みたいな舞台衣裳のデザイナーも装置家も演出家も、一つのものをつくるグループとして一緒にやれたの。今はできなくなってきちゃったのよね。そういう同志としてのアンサンブルってないでしょう。
ー斎藤 聞いたことありません。
緒方 バレエの創成期もそう。私なんか特にね、桃チャンとは血縁関係があったものだから、バレエ団へ泊まり込みだった。そこへ食うや食わずのバレエダンサーが来て、ああだこうだという。振付家もああしたい、こうしたいという。四六時中一緒にものを考えて、お金がないから、一緒に手伝いながらものをつくっていったわけだ。谷バレエ団の創成期の頃から、一番華やかだった『ドン・キホーテ』(1965年)をやった頃のアンサンブル、今はもうないでしょう。
今は、もっと踊れる人はいる。テクは昔から比べたらずっとある、歌の世界も。オケもそうだと思う。
だけど、一緒につくれないのよね。昔、お金はないけどチャンスはいっぱいあって、いろいろなことを試せて、みんなと一緒に舞台創って。今はもう力尽きて、もうやめたなんて言っている。非常に得しちゃったと思うのね。
これからやる人は大変だよね。日本で、やる場所とか、チャンスがとても少ない。お芝居のほうがいいのはね、一緒にまだやれるから。小さいグループのほうがお金はないけど、やりたいという人が集まってる。大々的にやらねばならないオペラとかバレエとかになると、分業化されてしまって、あなたこの時間だけしか来られないのねという感じでしょう。バレエダンサーの顔だってよく覚えていない。
昔はみんな一緒くただったから、どうかしたら谷さんのうちで何人かのダンサーと一緒に泊っていたものね。みんな帰れなかったり、ご飯食べられなかったりして。谷さんのところでご飯とか面倒見ていたから。それはみんな貧しかったの。でも精神貴族。夢は共有出来た。男のダンサーとかの話も聞くと、みんなとてもつらい中でやっていましたよ。だけども青春をかけられるのよね。
今、かけられないでしょう。何でだろうと思うの。物の誘惑があり過ぎなんだよね。生活にお金かかり過ぎだね。何だかんだ言ったって車を持って、電話持って。インターネットはやっている。昔私、電話もなかった。初めて下宿した頃は新聞もラジオもなかった。
清野 顔を突き合わせて話をする機会は圧倒的に減っている。
緒方 そうでしょう。だってみんなさっさと帰っちゃうんだもの。みんなうちへ帰っても、昔ってきっとそういう場所がないから帰らないで、みんな寄っていたんだと思う。
ー清野 そうだと思います。
緒方 いつもたまってしゃべっていたわね。別れがたくて。
ー清野 今みんなメールで連絡という時代になっていて。
緒方 でもそれは必要事項だけでしょう。そうじゃなくて、もっと自分の想いみたいなものまでしゃべろうと思ったら、メールではしゃべれないでしょう。
ー清野 そうですよ。やはり余白というか、雑談の中にいっぱい相手との関わり方というのが含まれてくるのに、今はその余裕がないんですよ。ゆるみがないというか、ゆとりがない。
緒方 そうみたいね。だから私なんかまだ島さんとか堀尾[幸男](注28)とか、わりとしゃべりやすい仲間、演出家も丹野[郁弓]さんだってとてもしゃべりやすい。うちへ来てもくだ巻いている人だから、ビールと食べ物をいっぱい持ってきて。すごくありがたいですよ。芝居の関係だと私の体があまり自由利かなくなったら、みんなうちへ来てやってくれる。だから民藝とは仲好しになってしまうの。
でもオペラになったら国立劇場の人がここへ来てというわけにいかないでしょう。私が国立劇場に行って、それぞれの部署へ行って話をしなければならない。私はもっとビジネスライクになれればいいの。うんと若ければできるけれど、今になったらもういいやと思ってしまう。これからのスタッフ達は大変だし、事実育ってないでしょう。これが一番問題。
やる場所がないから育たないんだよね。仕事は面白い。お金なくても、仕事はみんな面白いからやっている。だけどそのお金のない限界ってのもちょっと違うし、第一仕事をやる場所がないよ。チャンスがないよ。私達の頃はいくらでもあったわね。やろうと思えばいくらでもあったわね。
ー斎藤 お金ないのに昔の人は何であんなにいっぱいやっていたんだろうと、不思議に思っていました。
緒方 思うでしょう?
ー斎藤 この人達は、何を資本に芝居をやろうと思っていたんだろうとか。
緒方 資本があって始まるのではないの。やりたい事がたまって、そういう人が集まって、膨らんで行き、お金を考えるの。バレエにしたって、靴は1回舞台で履いたらそれはもう駄目じゃないですか。前はみんな綴(つづく) って綴って、古いボロボロの靴履いてやっていました。最初に行った時、どこへ来ちゃったんだろうと思うぐらい乞食小屋みたいだった。ももひきをタイツの代わりにして踊っていたからね。綴りだらけのレッグ・ウォーマーだとか、タイツだとか、それをいろいろいっぱい重ねて着て。底をぐるぐる巻きにしたりしてもたせて。昔、バレエで嫌だったのは、靴がカチカチに硬いから、コツコツコツコツと音するの。今は音しないじゃない。
だってそのぐらい硬い靴じゃないともたないから、コール・ド・バレエ(群舞)なんかはうるさいよというぐらい、すごい音がしちゃうの。今は靴が軟らかいから、音もなくシュッと立てるけどすぐ駄目になるものね。
ー斎藤 そうですね。
緒方 今みんな何足も何足も靴持ってくるけど、昔はせいぜい2足バレエ・シューズとポワントを持ってきて、ポワントのほうは大事にしてめったに履かなくて。それでもやっていたのね、みんな。
踊りってすごく本能的なものじゃない?どんなときでも踊りたかったら踊っちゃうじゃない?いい音楽が聞こえた、自分に何か感動したらすぐバーッて踊るじゃない?絵は何段階か作用があるけれど、踊りはそのままストレートにバーッと出てくるでしょう。だからあの人達の衝動は止められないのよね。いつの世だって踊るわよ、きっと。
演劇もそうなんだってね。アウシュビッツの中でもってお芝居やったんだよ。明日死ぬかも分からない人達が。そのくらい人間の欲望の中に強くあって、飢えて立てないような人達だって演劇を欲したんだから、とても大事なことなんだなと思うの。とても大切なことなんじゃない?
それが私の支えになっていると思う。これはやらねばならないとか、やるべきこととか、そういう使命感があるの。人間としてとても大切なことで、衣裳はその中の一部なの。それをやるためのお手伝いかも分からない。でもやらねばならないことだって。それが支えになってきたんだと思うわ。
ー斎藤 そのような使命感はどこからくるのでしょうか。何か具体的なきっかけがあってということではなく、ご自分の中にあるものですか。
緒方 感動したり、何か表現したいと思ったときに絵を描いたり歌を歌ったり、踊ったり、いろいろな形をとる。舞台芸術を夢見ちゃう人もいる。自分がやるのではなくて踊らせたいとか、踊ったのを見たいとか、そういう気持ちが自分の中にあるわけよね。舞台で演じる、そのことがすごい好きというか尊いわけよね。それをやるための衣裳は、一部分のお手伝いかもしれないけど、でもそれは自分のやるべきことだと。自分のできるのはそれだから。そういうふうに思っちゃった。
特に踊りのほうからいっとう最初に踊りから入っていってるから。クラシック・バレエでもコンテンポラリー・ダンスでも、何か着なければいけないのよね。そのことで何かが表現になるのよね。裸ん坊でも仮面を付けるとか、そういうので踊ってほしいとか思うじゃない。だからそういう舞台を創ることに参加していることがものすごくうれしいわけ。
海にものすごく深く100メートル以上まで潜る人いるじゃない。あれ、7分ぐらい潜っているらしいんだけど、一番深いところへ行ったらグラン・ブルーといって真っ暗な世界に落ちていくわけでしょう。その時は全く無我の境になるみたいね。宗教でいう悟りの境地みたいなところまで行って、己なんてなくなっちゃうらしいのね。その快感が忘れられないから、あんな過酷な競技をやる。
私はそこまでは経験したことないけど、夢中になっているときはそれに似た感覚があるのよね。陶酔とも違うし。それでいて使命感はあるのよね。そのために生まれてきたみたいな使命感がある。誰にも言えないの。そんなこと誰にも頼まれたわけでもない。親も絶対そんなこと頼まない。止めてくれと言っている中で、なぜ自分だけがそんな使命感背負わなければいけないんだろうと思うけど、でもあるのよ。そういう人間なんだからしょうがないんじゃないかな。やり通さねばならないって。音楽や絵画、舞台で感動した時、真っすぐ生活には戻りたくなくて歩き回ったりしませんか。私はそれが見たくて聴きたくて生きているのだと思うのです。
注釈
注24)粟國安彦(あぐにやすひこ 1941年-1990年) オペラ演出家
バリトン歌手として藤原歌劇団合唱部で活動を始める。67年に演出助手、舞台監督助手を務め、舞台製作の道に入る。69年イタリアに渡り、帰国後、藤原歌劇団で国内演出デビュー。以後、日本を代表する演出家として活躍した。昭和音楽大学助教授。
注25) 伊藤道郎(いとうみちお 1893年-1961年) ダンサー
舞台装置家伊藤熹朔、演出家千田是也の長兄。1912年に渡欧し、ドイツでジャック・ダルクローズにリトミックを学ぶ。英国、米国でダンサーとして公演を行うほか、アメリカで指導者として活躍した。1943年に帰国後、伊藤道郎舞踊研究所を設立。
注26)丸木位里(まるきいり 1901年-1995年) 画家
戦前には歴程美術協会や美術文化協会に加わり、抽象やシュルレアリスムを取り入れた独自の水墨画を発表して高い評価を受けた。広島に原爆が落とされた時には、数日後にかけつけ、その様子を目撃する。やがて夫婦共同制作で『原爆の図』の制作に取り組み、15部の連作を完成させた。
注27)カール・ベーム(Karl Böhm 1894年-1981年) オーストリアの指揮者
練習指揮者として出発し、1917年にデビュー。ドイツの主要な歌劇場の指揮者を経て、ウィーン国立歌劇場とウィーン・フィルにデビューしたのち、同歌劇場の音楽監督に就任。終戦で解任され、54年に復帰。56年に辞任し、フリーで活躍する。独音楽を得意とした。
注28)堀尾幸男(ほりおゆきお 1946年生) 舞台美術家
オペラ、ミュージカル、現代演劇、歌舞伎、コンサートなどを手掛け、作品は多岐に渡る。野田秀樹、三谷幸喜、いのうえひでのり、中島みゆきら第一線で活躍するアーティストの舞台美術を多数手掛けている。
日本舞台芸術オーラル・ヒストリー・ アーカイヴ・プロジェクト
@緒方規矩子氏アトリエ
2015年2月8日
同席者:伊藤雅子、清野佳苗、西原梨恵
聞き手:斎藤 慶子、深澤 南土実
プロフィール
緒方 規矩子
緒方 規矩子
OGATA Kikuko
衣装
東京府日本橋生まれ。京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)図案科に学ぶ。在学中から演劇に傾倒し、クラスメートの田中一光や粟辻博等と「アトリエ座」という学生演劇団に参加。美大卒業と同時に新たな劇団「喜劇座」を起こす。鐘紡勤務をへて、舞台衣裳デザイナーとして1952年、関西歌劇団の『椿姫』でデビュー。以後...