緒方規矩子(BUVILE ー舞台美術家への道ー)Vol.1/緒方規矩子氏と島次郎氏による対談
小劇場運動
― お二人の出会いから、お話をうかがえたらと思います。
島 緒方さんは黒テントの『西遊記』(1980年)とかをやっていますね。もう亡くなったんですけど福原[一臣](注30)というのが友達にいまして。1970年代は、私はその福原と一緒に稼ぎ口として修理会社を一緒に作ってやっていたんです。彼に誘われて『西遊記』を観に行きました。
私はそれまでに黒テントがやっていた山元清多(注31)の『チャンバラ』(1972年)とか、その前の『鼠小僧次郎吉』(1971年)とか1970年代初頭の作品を結構観ていました。テントが好きで、私自身別の小さなテントをやっていたのですけれども、70年代初頭にやっていた黒テントの舞台を観たときの感じと、『西遊記』なんかを観たときの感じがすごく違っていたんですね。『西遊記』はテント公演ではなかったんですよ。
緒方 そうそう。都立家政のところに黒テントが引っ越してきて、そこの作業場みたいなところの下に小さな劇場を作って、そこで黒テント活動をやっていたんです。あれは本公演ではなかったのかもしれない。遠藤琢郎と佐藤信が共同演出でやった公演なんですね。
島 前から緒方さんの名前は知っていたんですけれども、具体的に緒方さんだと意識して観たのはその時が最初です。私は出身がもともとアングラ系で、オペラとかバレエはほとんど観ていませんから。『西遊記』なんかを観て、緒方さんもそういうのやるんだと。
緒方 当時は自由劇場だったんです。その頃にも、もうやっているんです。
島 1960年代ですね。観世[榮夫]さんともですよね。
緒方 装置は阿部[信行]さんってね。
島 平野[甲賀]さん(注32)がポスターやってとか。なので私みたいなアングラの人からすると、何と洗練されている、美意識があるんだと。
緒方 私、自由劇場にいた人達とはいまだにつながっている。この間も『西遊記』を再演して。それを持ってマニラかどこかに行ったの。そうしたらあのときの制作の人がまた来て、「再演するから、衣裳を何か考えてください」と言われて、またやったんですよ。[斎藤]晴彦さん(注33)が『隠し砦の肝っ玉』(2002年)やったときも私。佐藤信や俳優座の何期かの人が集まって自由劇場をつくったでしょう。その頃オペラの栗山昌良さんのアシスタントが佐藤信と粟國さん。2人はデザインを取りにうちへよく来ていたんです。自分達が独立して何かやるといったときに、「緒方さん、やってくれない?」というわけで、「いいよ」って。すごい気楽に引き受けた。だからあそこへしょっちゅう遊びに行っていたんです。だからこの間亡くなった晴彦さんのところもみんな何となく友達というか、村井[國夫]さん(注34)とかもね。その頃の残党というのが、結構みんな散らvばって活躍していたりするわけ。そういう古い付き合いなんですよ。あの頃はアングラ全盛期。代々木小劇場から始まって。代々木も私やっていましたよ。だからアングラと縁がないといえないの。
島 「変身」もやっているんですか。
緒方 ええ。
島 私も「変身」の演出家と仕事したことがあって、かなりハードだなと。
緒方 下[床]が土でね、大変面白い劇場だったけど。
島 私の場合は唐さんのテントを観てやりたくなったんですね。黒テントと紅テントにもう二つとも入って活動し始めていたんですけれども、若いから即デザインをやりたいじゃないですか。でもああいうところに入ってもやらせてくれないですよね、そんな学生上がりみたいなやつにすぐデザインやらせるはずないので。もうこっちは若いからプランをやりたくて。で、ちょうど早稲小[早稲田小劇場]から分かれた「[演劇群]走狗」という劇団がありまして。見たら美術家いない。じゃあ、俺やるわと言って入って。何でもやったんですけど、力がなくて何年かでつぶれました。それこそ長靴履いて、いつもスコップとツルハシでしたよね、テントですから
緒方 うん、そう。私も道端にドラム缶置いて染物やってね。
島 私なんかはそれが面白いんだと思って始めましたから。
緒方 元気でなきゃできないよね。本当に若くないとできない。
島 ナグリ持って、シノとか番線とか鉄パイプとかそういうもので舞台美術を作っていたんですね。(ナグリ→釘を打つための大工道具。シノ→番線を締めるために使う道具。番線→主に丸太を組むときに使われる鉄線)
緒方さんの仕事では、次はボートシアターで『小栗判官・照手姫』(1982年)を観たのが印象強いですね。堀尾さんと知り合いで、堀尾さんがボートシアターで美術をやると聞いて観に行ったら印象がすごく強かった。緒方さんに聞きたかったのは、どうしてボートでやろうと思ったかということなんです。
緒方 もともとボートで演劇活動をしていたグループがあったんです。志摩明子さんとか、野口英さんとか、他に演出家とかいらして、ボートで稽古もしてたんです。京浜協同闘争[京浜協同劇団]といったか、かなり左翼系のグループの流れなんです。もともとはあの船で外国人が画廊をやっていたの。
島 はあ、面白いな。
緒方 2艘持っていて、画廊をやっていたんです。劇団は夜にそこを稽古場として借りてたの。それで演出家が亡くなったために、遠藤が呼ばれ演出をするようになたんです。でもそれでいきなり『小栗』をやったわけじゃないの。もっと全然違うものをやって、もともといた人達はずいぶん辞められて。当時志摩さんや野口さんが、当時自由劇場がやっていた「赤い教室」という演劇の学校をやっていたんですよ。そこの生徒だった人がずいぶん入ってきたわけ。それが閻魔さんを演じた玉寄[長政]という子とか、もう辞めたけど初代の小栗とか照手とかもそうだし、みんなそっちのほうから入ってきたんですよ。
島 初代の小栗やったのは。
緒方 吉成[美輝]さんという人で。
島 吉成は「演劇団」という、流山児[祥](注35)がやっていたところにいたんです。 緒方 でも、自由劇場の研究生か何かでいたのよ。
島 そこから行ったのか分からない。びっくりしたんです。観に行ったら吉成が出ているので。
緒方 あなた、初代のときから観ているの?[横浜ボートシアターの]小栗はね、語りながら演じる形でしょう。あれは遠藤が創っていった独特の形だけど、それを小栗判官として形として定着させたのは吉成さん。代々、格好いい小栗もいたし、何人かが演じたけどあの人が一番いいです。あの人が、一番素晴らしかった。だけど吉成さんはあの頃、確か動物園の飼育係かな、それもやりながら、サーカスのほうもやりながらやっていたんだけど、結局、家庭を持って安定するために芝居、諦めるって。
島 辞めましたね。
緒方 島さんが初代の『小栗』を観ていたとは知らなかった。
島 観ていました。どちらかというと野外とかテントでやることが私は好きなものですから、船でやっていると聞いて見に行ったんです。そのときは緒方さんの印象が強かったですね。
緒方 でも、私は最初のボートには参加していないんですよ。呼ばれたのは演出家として遠藤が呼ばれただけで、私はその頃オペラとかバレエのほうばかりやっていて。
遠藤がのちに代表みたいになってどんどん演出するようになってから、入れてと自分で言って入れてもらったんです。
島 あ、そうなんですか。僕はもうボートシアターをつくったときにあれは2人で考えてやったんだと思ってました。
緒方 違う、違う、既にあったんです。そんなこと言ったら、前に創っていた人に申し訳ない。呼んでもらったんです。私もあのボートすごい好きだったんですよ。あの場所がもうたまらない。
島 そう、すごくいいね。
緒方 木の船でね。生の演奏やったりすると、実に音が美しいの。あのちいちゃな船の中で。お客は60人か100人ぐらいまでしか入らない。そして演技面(アクティング・エリア)があって。船底なんて浅いんですよ。昔のだるま船ですから。横浜というのは沖に大きな船が着くと、岸との間をだるま船がつながないと荷物の上げ下ろしができない。また汚わい船って言って、昔は都市の汚物をああいうだるま船に積んで、沖へ持って行って捨てていたんです。それがだんだん不精して東京湾の中で捨てるようになったので、規制が厳しくなった。昔の東京湾はすごく汚かったですよ。
― 生き物がいなくなったと聞いています。
緒方 そうです。私が大阪から東京へ出てきた頃なんて、大森はまだ埋め立てが完成していない頃で、イヌの死骸がプカプカ、野菜のくずはいっぱい。これ海っていえるのと思うぐらい。でも子供の頃は大森の海岸に貝を食べに行っていたような綺麗な所だった。海のものを食べに町中から行って、あそこに縁台が出ていて、チョキ船みたいなのが来て貝をどさっと空けてくれると、そこで貝汁を作ったり、シャコを茹でたのを食べたり、天ぷらをそこの縁台でやってくれて、それを食べに町中の人が行っていたの。大森は綺麗な所だった。それが汚くなっていたんです。それの名残の船なんです。役に立たなくなったから岸へみんなくっ付けて。横浜の中華街の裏ですけど、水上生活者が川にいっぱい住んでいたんです。私達のボートは30メートルぐらいだったかしらね。それをみんなでお金を出して買い取って、そのときは2艘買って1艘楽屋にして。1艘は稽古に使える小さい船だったんですが、沈んじゃったの。台風で沈むし。喫水線のところから管が出ていて、船の中に溜まっている水が流れ出るようになっているんですが横に大きな船が通ると逆にガボガボ水が入ってきて、過剰に入ってきてそのまま沈没しちゃって。でも沈没しても屋根は出ているぐらい浅いの、あそこ。何回も水を掻い出しては浮き上がらせてという作業を、ボートの人達が飛び込んでやったんですよ。だけどもついに市の条例が出て、あのはしけで住居もいけない、商売もいけない、劇場なんて人がたくさん集まることはいけないと許可が出なくなっちゃって。せっかくお金出して買ったのに廃棄処分したんです。
島 音がすごくいい。音がすごくいい状態で来るその印象が強いです。
緒方 そうですね。また昼公演のときなんかもものすごくいいんですよ。船の横の上のほうに窓がずっと付いてて空気の入れ替えと明かりのために開けるんですよ。すると水が反射して、キラキラキラキラ。床にもキラキラ。本当に良かったですね。それで今では作れないような厚板がダーンと胴に張ってあるわけ。それに生の楽器で演奏すると、ほんとにもう、どこにもあんないい音響のところないね。それもあの楽器、全部手作りよ。お金ないから。矢吹[誠]さんって黒テントにいて音楽やっていた。それがボートのメンバーで、役者もやれば演奏もすれば歌も歌っちゃう、作曲もしちゃう、何でもやるんですよ。彼が楽長。「三味線くれる?」とか言ってくるから持ってこなきゃしょうがないじゃない。そうするとそれでもって特別の胡弓にしてみたり、何か1弦の弾くものにしちゃったり、いろいろ改造して楽器作っちゃうの。
73年に私が文化庁の研修で行ったとき南回りで行ったから、最初に降りたのがインドネシア。ジャカルタで降りてバリへ行ったらそこで見た楽器がすごく面白かったの。ジェゴッグといって、直径約10センチ位から40センチ位までの太さの竹の後ろを斜めに削ってベロを作って、叩くと反響するようになっていて。ジェゴッグの演奏が、聴いていると本当にぼうっと、朦朧としちゃうような音楽なの。自分達で手作りで作っている、全くお百姓さんの楽器なんですけど。それが良かったものだから、こんなものがありますと言って、写真と描いたものを日本へ送ったんです。それから、ボナンというおへその出たような形の楽器で、それを叩くとボワーン、ボワーンとすごくいい音が出る。これみんな野外のためのものだから劇場用の楽器ではないわけね。向こうは劇場といっても柱が立って、屋根は二重の屋根が付いていて、インドネシアの演奏するところとか踊るところというのは、音が外の空気とツーツーなので、鳥の声も聞こえればイヌの声も聞こえる。だけどその音がスピーカーのように反響して、観客は音で包まれるの。これは一緒にジャワで公演したときに経験したんだけど、誠に心地いい音楽になるわけよ。
島 それで床が石ですから、音が一回上に行って、下からまた来るわけですよね。
緒方 それ[ジェゴッグ]をまた矢吹さんがいいねというわけで、「買えば」って。そんなものみんな手作りでやっているんだから。それでこんなのだと言ったら、矢吹さんが日本の竹で作っちゃったんですよね。いろいろな不思議な楽器を彼が作ってしまった。ボナンは、そんな簡単に買えるものではないし、音階をこちらが指定して鍛冶屋がその向かい作ってくれるものなんですよ。だから一つ一つ村が注文するわけ。そうしたら矢吹さんが来ちゃったの。お金どうするんだか分からないけど、2度目に劇団員と一緒にバリに行ったときに、みんながトランクの中にそれを1個ずつ入れて持って帰ったの。だって、荷物の重量制限があるでしょう、外国って。20キロだったかな。だから自分の品物は極力減らして、金属のボナンを入れるためにスペースを空けて買って帰ったんですよ。何個かないといけないから。ドレミの音階とちょっと違うの。それを買って帰って来て。2度目の『王サルヨの誓約』(1988年)のときはみんなが三味線を習っていたんですよ。矢吹さんに教わって。笛も吹いちゃうし、太鼓は叩くし、またいろんな楽器を使って……
入野[智江]さんという高名な作曲家のお嬢さんが役者でいたんですよ。舞台を突っ切ることもできないような、役者ともいえないような人だったんだけど、楽器は何でもできちゃうのね。それでみんな面白がってメイクしたりして、ボートの舞台に座っていたんだけれども、そんなことから始まって、ボートシアターは楽団を持っちゃったんですよ。自由劇場のほうは洋楽器ばかりでね。ホントは全部手作りの楽器で、一からそういうものを作ってやりだしたの。だからあそこの空間が面白くて、面白くて。音を鳴らせばいい音だし。それでかなり何年間か夢中になったんですよ。身銭はたいて。もう、ざるに水をくんでいるみたいにお金は出ていきました。
島 そう、だいたいそうですよ。
緒方 よそで稼いでは、あそこでもって全部使っていたわという感じ。でも何年間か場所を使わせてもらって。それで横浜の市長に嘆願したり、船を劇場にするためにいろいろやったんですけどね、結局、許可下りないで、もう絶望しちゃった。もしも許可が下りたら、下を劇場にして、上にちょっとした喫茶店というか、たばこの吸える場所を作って、夜風にあたりながらなんていいなと思っていたんですけどね。その夢は駄目になりました。結局その木造船は廃棄処分にされてしまって、私も辞めたんですけど、今は横浜の大黒埠頭に鉄の船があります。ものすごく寒いの。船って半分は水の中に入っているわけで船底で稽古していると足がしびれてきちゃうぐらい寒いの。ストーブ何台かつけているけど間に合わないし。その上トイレがないんですよ。
前の船は公衆便所のそばに船泊めていて。船を出てから橋渡って曲がると公衆便所ありますということでやっていたんだけど。一度、海上自衛隊のある第5埠頭のほうで『サルヨ』をやったんですけど、結局それが最後でしたね。その鉄の船は船泊りという、廃棄船ばかり泊まっている大黒埠頭のほうにいますが前のような活動はちょっとできないですね。私は完璧に夢破れたんです。
― 理想のようにできたら天国ですよね。みんな気持ち良い音楽で、気持ち良い場所で。
緒方 そうです。市の人はあの良さを何で分からないんだろうね。行政にとってはゴミなんですよ。「ペンキで塗ります」とか何とか言っても駄目なんだよね。もし生き残ろうとしたら、停泊代を1日いくらで港湾局に払わなければならない。公園のほうに付けようと思ったら、公園の管轄になるからとまた違うんですもの。もう行政の規約がややこしくて、ついに「ふね劇場をつくる会」を作って横浜の市民が立ち上がって。またそこへお金ね。
島 そうでしょ。寄付したでしょう、少ないけどみんなで。それで何か集まりもあったじゃない、横浜で観世榮夫さんなんかが会長になってくださって。
緒方 でも駄目でしたね。そのときもう武蔵野市へ引っ越していたから、ここから横浜の大黒埠頭まではすごく遠くて。その上冷えて、トイレね。体壊しちゃうし、行かれませんと言ってボートはやめたんですけどね。
スタッフの醍醐味
― 先日の『ヒトジチ』(2015年、丹野郁弓演出)のときには、お二人の息がすごく合っているというか、色彩のハーモニーが印象的でした。
島 あれは演出のおかげですよ。意外とみんなに伝わって。その感じにしたいという形で各々が衣裳だったら緒方さん、美術だったら俺が、それを出していって、丹野さんなりに調整して。明かりも最初ちょっと変なところがあったけど明かりは装置や衣裳とも関係しているので、僕達もちょっと一言言うときあるんです。言うとわりと受け入れてくれるんです。拒否する演出家ではないですよね。ですから「それが一つになった感じ」があったんでしょうね。
― 長年のお付き合いが生んだ結果なのかなと?
緒方 いや、それは絶対ありますよ。あまり長くなくてもね、すごく安心というか、信頼しているわけ。島さんならこれ大丈夫とか。それでまた私もいろいろ偉そうに言うの。島さんはブーブー言っているから直らないのかなと思ったら、初日になったらちゃんと直っているとかね、いろいろ。とてもやりやすい間柄です。
― 最初からそうはなかなかいかないものでしょうか。お二人の最初のお仕事は『グリーンベンチ』(1995年)でしたが。
緒方 一緒に仕事して嫌だってなったことないね。
島 そうだね。ただ僕ももともと美術やっていたものですから、演出からこうだ、こうだ、と全部固められると拒否反応出ちゃうんですね。ある程度イメージを伝えてくれても、形から寸法から色からを決められると、「じゃあ勝手にすれば」となっちゃう。こだわりがやはりあるものですから。そういうことってありますか?
緒方 ありますよ。もう次やらないよ。私もわりとそういう演出家とは組んだことないです。わりとお任せねと言って、意図だけは言ってくれますけどね。そうじゃない人もあるよね、意図も言わない人ね。でも絵を見たりプラン見て、「それ、面白いじゃない」と言ってくれれば、そこは安心して走り出せるけど、それもないと困るよね。
島 僕は演出家がいいですねと言うと、結果的にあまり面白いものができないですね。話をしたときに、向こうにイメージがあって、それとこっちが考えることを組み合わせて、それをまたひとつ超えた別なイメージが演出からきて、それに対してこうだとかどのぐらいずれがあったほうが面白いかとか、こっちは考えるわけじゃないですか。演出家に合わせるのではなくて。
緒方 そう、合わすんじゃないんだよね。
島 そう言うことが許容できない演出家、この通りこうだと言っちゃう演出家だとどうしても駄目になっちゃうタイプですね。
緒方 装置は特にそういう注文多いと思うの。ミザンセーヌを演出家が創るでしょう。だからそのためにものすごく細かに装置家には注文を出すけど、衣裳は分からないみたいね。
島 演出家は衣裳を知らない人多いです。
緒方 そう。だから私はしめしめを言うところがある(笑)。何か企んでやってもあんまり[ダメがない]。よく島さんと揉めるのは床。特に島さんは床に……。
島 そう、こだわっちゃう。
緒方 そうすると、足が滑らないとか、怪我する材料であるとか。衣裳が引っ掛かっちゃうとかね。石炭絡みであんなの全部敷かれたら、衣裳が薄い布(きれ)なんかだと引っ掛かって動けなくなっちゃうとかね。床で一番揉めるかな。でもそれは言えるからいいの。もし言えない間柄というか、装置家とも演出家ともそれが言えなかったら、その犠牲者は役者になってくるわけですよね。
島 だから僕達の仕事ってそういうふうに演出家と言い合って、何度もやり直して結果的にいいものをつくっていこうという意識があるならば大丈夫なんです。
緒方 そうね。それには大劇場の場合舞台稽古が足りな過ぎるけど。舞台稽古になって初めて装置に明かりが当たるわけじゃない?で、役者がそこに乗るわけじゃないですか。私なんかも初めて見るのよ。そこから直せといっても衣裳は直せないもの。せいぜい色を落とすとか、ちょっと染めるとか、裁ち落とすぐらいなもので、本質的な、根本的なものを変えることはできないよ。だからそれまではもう探っているわけ。こうなんじゃないか?ああなんじゃないか?と探り合いみたい。
ほかの人達は探ってくれているのかどうか知らないけど、私のほうはずっと探っている。あの前に立ったらどう見えるかなとか、照明どう当ててくれるかなとか、ずっとそれ。だから舞台稽古を本当は2回、3回やってほしいんですよね。一番そうですね。
島 うん、そう。もちろん。だけど現実はそんなことできないわけで。
緒方 ただ、民藝の場合は稽古場に本チャンの装置立ててくれるでしょう。だから助かるんですよ。
島 あれはこっちにとっても助かる。よくあるんですよ。大道具会社から塗りたてのものが乾かないで搬入されるということが。僕達からするとええっというのもあるわけで。ときには工場の混み具合によってひどい状態のが搬入されるわけですよ。
こっちからは一応色指定から模型なり何なり全部出している。それでも塗りが雑というか、それに程遠いような状態で来るときあるんですよ。
緒方 明かりが当たってみたら、ギャーっとなるのもあるし。上手と下手が全然違った色というときもあったの。島さんじゃないわよ。これはオペラのときだったけど。
― お二人でなさったお仕事でこれは面白かったねというようなものをお話いただけますか。
緒方 何回かありましたね。この間の『白い夜の宴』(2014年、丹野郁弓演出)のときのもとても好きだった。
島 僕もあれは気に入っている。
― お二人がスタッフとしてこれは良かったと言えるポイントは?
緒方 それはやはり「芝居が成立した」でしょう。
島 それですよ。全ては面白い芝居だったら、もう全部万々歳ですよ。面白いものが一番ですよ。それ以外の何でもないです。美術良かったね、衣裳良かったねと言われても、たぶんこれはあまり嬉しくないですよ。
緒方 うん、そうじゃないのよね。
島 嬉しいには違いないけど、「面白かったね、あの舞台は」と言われるのが一番嬉しいですよ、何と言っても。
緒方 それだけが目立っちゃうって言うのは、「じゃあ、芝居は面白くなかったのかな」と思っちゃうの。「お衣裳良かったわ」と言ってくださると、芝居つまらなかったのかなと(笑)。全部が一つになれて。
島 それでふわーっと、柔らかい感じのものがすーっとこっちに向かってくるときがある。そういうときはもう、やったと思いますね。
緒方 時間とか空間が一つになってお客に提出されているという、そんな馴染み方があるの。
島 メッセージだけではなくて、柔らかい表現がすーっとこっちに来るのがうれしい。やっていて一番うれしいときです。
商業演劇
緒方 商業演劇とかだと、ちょっとまた違うの。「あのお衣裳良かったわ」と言われたらとてもうれしいわ。やはりスターさんを綺麗に見せなければならないから。スターさんを見せなければならないものと、ドラマをちゃんと理解してもらうものと違うでしょう。ドラマを丸ごと受け入れてもらおうと思ったら、自分は出たらいけない。装置が良かっただの、衣裳が良かっただの、でこぼこしてたら芝居は成立していないわけですよね。
商業演劇はいいのよ。綺麗な衣裳を着たスターさんが目立てば。それであれをもういっぺん見たいわといったら切符売れるからそれでいいわけ。だからちょっと違うのね。やはりドラマ自体を見に来るお客さんと、スターさんを見に来るお客さんとはそこが違うんですよ。意味なく着替えするのがありますからね(笑)。作品に意味がなくても着替えさせてくださいと言うから。目的が違うから、そういうことも往々にしてある。
― ジャンルによってドラマを目立たせるものと、スターを目立たせるものとあるのですね。
緒方 そうですね。また演出家の狙いもあるんですよ。この間『奇跡の人』(2014年、森新太郎演出)画像原画、ヘレン・ケラーの話をやったの。あれは時間経過があるから、台本に忠実に行けば、主人公は着替えていかなければいけないわけなの。だけど演出家が狙っていたのはそういうことではなかったようだったから、1種類の衣裳だけで全部通しちゃったの。そうしたらそれを演出家がそれでいいと、それが狙いと。プロデューサー側も言ってくれたのよ。「目からうろこだった」って言ったんだって。ドラマからいったら着替えさせなければならない意味がないから。最後に黒いエプロンを脱がして。それで彼女の何かが開けたというのが分かる。それだけでいい。結局それは演出家と意思の疎通で成立できたわけですよね。本だけから言ったらやはり着替えはさせなければいけなかった。今までの演出ではたくさん着替えていたらしいです。
島 僕はアングラ出身だからかもしれないけど、台本(ホン)を解釈してつくったって、台本以上にならないと思う。ものをつくるときには、この世界をいったいどう世界にするかということを考えてやっているので、シェイクスピアなんかやるときにはこの時代のこれがあるけれども、これをどういうふうに今考えているのかとかどうやって現在に持っていこうかという話を演出家とする。そういうところから始めていくんです。なのに「シェイクスピアであんな芝居はあり得ない」「城壁がないと、ヘンリー6世はあり得ない」と本に書いてあったと言う人もいたりしてね。そんなこと考えていたら、シェイクスピアなんか現代じゃできない、とこっちは思うわけで。その辺がいろいろ、人の見方が違いますね。だから面白いと言ったら面白いですけどね。 画像
緒方 演出家の読みというか、解釈というか、何を狙っているかというところをスタッフは分からなければいけないし、またこちらからも提案しなければいけないわけよね。
島 演出家と話し合いを重ねて、こうやったら面白いんじゃないとか、創っていくわけで。私の場合は面白いことが優先。正しいことをやろうなんて絶対思わない。
緒方 面白いといったっていろいろあるから、その人の取り方でね。
島 そう。お互いの面白さって何なのか。舞台に置いたときに何なのかという。
緒方 だけどそれが一番難しいね。この演出家とかこの公演は何を狙っているかというのが分かるまでが一番迷うかな。
島 それは衣裳と美術の違いかもしれないね。狙いじゃないから、結局美術の場合は……。
緒方 だってこの芝居を今、上演して、このスタッフとこの演出家や役者で何を言いたいかというのが狙いでしょう。
島 だから言いたいかということが一つになるものではないから。
緒方 だって普遍的なものではないですよ。時代とかさ。
島 うん、いろいろなものが入ってきている。
緒方 その全部いろいろな状況も含まれた中で何を言いたいか?
島 ただ、そのときにさっきも話したけど、演出家とそこで一緒になればいいものができるかというと、俺はそんなこと思わないんだよね。
緒方 それはさ、演出家の言うとおりにやったらということでしょう。
島 違う。演出家が考えていることと、結果的にある部分イメージは共有しながらも、お互いにその考えている方向性が少しずれているほうが面白いものができるなという感じがある。俺なんかは。
緒方 ずれたときに演出家が絶対許さなかったらどうする?
島 それは駄目だろうね。もちろんそれはそうよ。
緒方 だからどこで歩み寄るというか、妥協じゃなくて、それは面白いじゃないかと乗ってくれるか、こっちも乗るか。
島 そう。それはお互いに両方持ちながらだけど。
緒方 だからその柔軟な関係を。
島 持っている関係の演出家と続けられるということ、それなの。
緒方 そうですよね。それは装置家との問題でもそうよ。もう絶対どうやったってあれはシンメトリーにしか飾らない演出家なんだと思っちゃったら、こっちもつらい。
島 そうそう。だからお互いにある程度不定形でもって重なり合いながら創っていくみたいな。
緒方 ぶわぶわの柔軟な状態で、何やろうか、何やろうかとなっていくのがね。
島 そう、それがベストだと思う。
緒方 だからそうなる演出家と組んだときは幸せだわ。そうじゃないときはとてもつらいものがある。もう二度とやらないとか、降りちゃうとか、そういうのも結構あるんですよ。私達は仕事もらう側だから、演出家を雇うわけではない。だから断ることはできても、私やるという売り込みとかはできないです。演出家がこの人使ってみたいとか、この人だったら何か出てくるかなということから仕事が始まっていると私は思っているけど、でも小さい劇団だったらそうじゃないよね。ボートシアターのときなんかは全くそんなことなくて、勝手にやりましたね。
島 でしょう。そうだと思う。
緒方 本当に勝手。「お金ないからしょうがないじゃないの」とかって言って勝手にやって、それでこなしてくれたから。
島 いや、ありますよ。この間も途中で演出家の意見がガラッと変わって、装置が違うって言い出して。何でこのプランになったかというと、予算がこれで、その中で何ができるかなと話したとこから来ているんだと説明して…「じゃあお金出してくれるの」と聞いちゃったもんね、俺。そういうこともあるし、いろいろなことがあるよね。
注釈
注29)島次郎(じまじろう 1946年-2019年) 舞台美術家
平面・立体の造形作品に取り組みながらテント劇団「走狗」で舞台美術に関わり、1980年代中頃から本格的に舞台美術家として活動を始める。演劇を中心にミュージカル、オペラ、ダンス、コンサートなどの多くの美術を手掛けた。
注30)福原一臣(ふくはらかずおみ 1946年-2007年) 俳優
文学座第8期生。劇団黒テントの創立以来のメンバーで、同劇団の「キネマと怪人」など昭和3部作などに出演、中核俳優として活躍した。
注31)山元清多(やまもときよかず 1939年-2010年) 脚本家、劇作家、演出家
「六月劇場」を結成した後、黒テントの前身である「演劇センター68」に参加。佐藤信、加藤直とともに黒テントの座付き作家となり、また演テレビドラマにも進出し、久世プロデュース作品の脚本を多く手掛け、多くのヒット作を出した。
注32)平野甲賀(ひらのこうが 1938年生) グラフィックデザイナー、装丁家
独特な描き文字で知られる装丁は6000冊に及ぶ。劇団「黒テント」や「水牛楽団」などの活動にも深く関わり、ビラ、ポスターおよび空間美術を数多く手掛ける。2005年より神楽坂にある小劇場シアターイワト総合プロデューサーを務めた。
注33)斎藤晴彦(さいとうはるひこ 1940年-2014年) 俳優
「劇団青俳」「発見の会」に所属後、劇団「黒テント」の創立メンバーになる。代表作は「放浪記」の菊田一夫役や、ミュージカル「レ・ミゼラブル」のテナルディエ役など。舞台以外にもドラマ、映画でも活躍した。
注34)村井國夫(むらいくにお 1944年) 俳優、声優
劇団俳優座養成所卒業後の1966年に俳優デビュー。串田和美らと劇団・自由劇場の旗揚げに参加。その後、テレビや舞台で活躍。舞台「レ・ミゼラブル」のジャベール警部役は、当たり役のひとつとなった。
注35)流山児祥(りゅうざんじしょう 1947生) 芸術監督、俳優、声優、演出家、プロデューサー
状況劇場、早稲田小劇場を経て、1970年「演劇団」を旗揚げする。“第二次小劇場世代”のリーダーとして 三十余年を疾走し続け、その演出作品は300本に及ぶ。1984年、「流山児★事務所」を設立 。
日本舞台芸術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ・プロジェクト
@緒方規矩子氏アトリエ
2015年2月8日
緒方規矩子氏と島次郎氏(注29)による対談
同席者:伊藤雅子、清野佳苗、西原梨恵
聞き手:斎藤慶子、深澤南土実
プロフィール
緒方 規矩子
緒方 規矩子
OGATA Kikuko
衣装
東京府日本橋生まれ。京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)図案科に学ぶ。在学中から演劇に傾倒し、クラスメートの田中一光や粟辻博等と「アトリエ座」という学生演劇団に参加。美大卒業と同時に新たな劇団「喜劇座」を起こす。鐘紡勤務をへて、舞台衣裳デザイナーとして1952年、関西歌劇団の『椿姫』でデビュー。以後...