緒方規矩子(BUVILE ー舞台美術家への道ー)Vol.1/2014年12月21日

本インタビューは早稲田大学演劇博物館演劇映像学連携研究拠点(テーマ研究「舞台芸術 創造とその環境 日本/世界」、研究代表者:藤井慎太郎)の活動の一環として実施されたものである。本稿のために再構成、編集を行い。画像も加えました。
もとのインタヴューは次のページに掲載されている。
早稲田大学文化資源データベース:日本舞台芸術オーラル・ヒストリー・データベース

生まれてから終戦まで

生まれたのは1928年東京の日本橋です。三越の前。父は日本でいっとう最初の学童服屋だったの。セーラー服とか制服の。ところが1929年に始まった大恐慌で銀行がつぶれて、雇われ社長だった父は借金を全部しょって追いかけ回されて。10ヶ所くらい引越した。最後が板橋区志村です。それから戦争になって、父の勤めが変わって、本社勤めになって大阪に引越しました。それが女学校3年生の時。私は長女で姉弟は六人、女三人男三人。すぐ下の妹は、関西で日本舞踊をやってます。その下の妹は志村に越す前に亡くなった。父は男の子が欲しくて仕方なかったらしいの。そしたら生まれたの。私と10歳違い。それから更に男二人続いて。サラリーマンの家庭です。

ただ母は一寸変わっていて。結婚するまで叔母(姉、谷桃子の母)の家で上の姉と祖母と一緒に暮らしていて、桃チャン(注2)達の子守いうか、又叔母の洋裁屋を手伝っていました。母は18か19の時に上の姉とインドへ行ってるんです。だからか普通のお母さんとは違うお母さんになっていて。そういう母に育てられた、という感じは持っています。母方の姉妹には、宝塚の人もいたし、桃チャンもいたし、叔母はヴァイオリンを弾いていたり歌を歌ったりと言ってもクラシックだけと、とにかくそういう母に育てられました。

父の方は堅い家で。小学校時代は、最初は池袋。立教の裏の、今どうなっているか、全然分からないんだけど。

ちょっと怪しいところもあった。三業地(料理屋、待合、芸妓屋の三業の営業が許可された地域)と私達は言っていたけど、銘酒屋(私娼屋)のこと。それがわりと近くにあったんだけどな。 池袋の小学校には3年生までいて、そこから転校したのが板橋区志村中台町。その頃はまだ新開地(開墾した土地)でね。歩いたら砂ぼこりで西部開拓時代みたいなすごいところ。

城山といって昔お城のあったところの一部分が小学校で、奥のほうにずっと城山の続きがありましたね。 バス停のところだけがちょっと盛り場で、あとは新開地の砂ぼこり。小学校がポコンと山の上にあって、山を下りたらば私達の社宅があって。今でも絵に描ける。学校の山と社宅の山と、真ん中の道がずっと志村西台まで続いて、社宅の台地の下に湧き水があって、道の両脇は田んぼ。それで向こうを見たら戸田橋が見えて、「向こうは埼玉県だよ」と言ってました。そこへ3年生のときに転校したの。

 私は虚弱児だったんだけど、志村に行ってから野山を駆け回るのが好きになって健康になった。女学校はそこから世田谷まで通ったの。すごく遠かった。鷗友学園高等女学校。経堂にあって、自由主義的な教育をする良い学校でした。府立第一高女(現 白鴎高校)の卒業生が建てた学校で、きっと自分達が育ったようなお堅い学校にはしたくなかったのね。校長先生は、アメリカで教育を受けて来られた女性でした。同級生には画家や舞踏家の娘が多く、元藤燁子さん(本名 明子 舞踏家)も同級生。私は絵画クラブで石川志づ校長の弟石川滋彦さんに指導を受けました。

 ちょうど私が女学校へ入った年の12月8日に戦争が始まった。普通の中学校の校長先生は万歳とかしたらしいのね。うちの学校は校長先生が「大変なことになりました」と、本当にしょぼーんとなっちゃったの。それで大変なことなんだなと思いましたね。

 戦時中は学校も戦争のあおりを受けて、普通の授業はもう全然できない。だから私には中3の学力しかないですよ。中3までしか勉強していない。その後は学徒動員で学校工場、でなければ外の工場に働きに行くか、勤労奉仕といって田んぼに行くか、宮城前の草むしりに行くとかそういうことで、勉強というものを全然やっていない。

 学徒動員で行った工場ではいろいろなことをやらされるんだけど、私は旋盤からハンダ付けから…真夏、40 度の酷暑の中でハンダ付けとかを全部やりましたよ。危険な作業です。指を切って落としかけたこともあるし。戦争の末期にはそんな小さい子達しかもう働き手がいなかったの。中学生とか高校生の子が動員されて工場で飛行機の部品を作っていたの。飛行機が落っこちるのは当たり前だよね。(笑)

 それで左右の部品をくっ付けて連結しなければならないのに、右があるときは左がない。左があるときは右がないで、40 度ぐらいの工場の中で汗だらだらでじーっと待っているの。もうろうとしてきて、鉄板の上で手を置いて待っていると手の形のとおりに汗のあとが出来てね。体弱いからといって、私は放逐されたこともありますよ。来ないでいいからと。

 まず食べるものがないでしょう。工場へ行ったら、どんな混ぜご飯でも、油かすの入ったご飯でもとにかくご飯があるの。ガソリンくさいご飯よ。大豆を絞った油のかすが混ぜてあるご飯だから。それにおかずがちょっと付いて。でも家にいたらそれも食べられないの。家ではもうお弁当に持っていけるような状態ではないのよ。お箸の立たないおかゆみたいなもの。それはもうぐちゃぐちゃ。だから雑草を取ってきて雑草でお雑炊を作ったり、糠まで食べましたから。本当まずいわよ。それもきっとろくな糠じゃなかったと思うの。小麦の糠とかそんなのじゃないかな。母がどうしようもなくて、糠を人数分に分けてくれた。自分で勝手に何とかしなさいと言って。それでも毎日毎日買い出しに行って、ダイコン買ってきたり、カボチャを買ってきたり。カボチャの季節だと手も顔も真っ黄色になるぐらいカボチャばかり食べるの。他にないから。

 買い出しは、お金より物のほうが値打ちがあった。お茶碗がいくつか揃っていればそれと交換で、お米くださいとか、あれくださいとお百姓さんに頼むの。着物は木綿の着物が一番喜ばれた。かすりの着物とかは丈夫だから。

 でも家の中には何もなかった。押入れを開けたら空っぽ。配給された下駄の土台の板だけが押入れに積んであったのは覚えているわ。自分で鼻緒を作って鼻緒をすげないと、鼻緒の付いた下駄はない。自分で作るの。だから父親のネクタイをつぶして鼻緒にしたりなんかして。靴なんて履くのは東京にいたときまでで、もう靴はおしまいだったわね。あとはわら草履だとか、何を履いていたんだか覚えてないわね。

 不思議なのは私、何を食べたかも覚えてないの。何しろ飢えが一番嫌だった。飢えることが死ぬよりつらかった。空襲があるから明日死ぬかもしれない。機銃掃射されるんだから。頭の上に飛行機が飛んでくるんだよ。弟達が小学校から帰ってくるときのことなんだけど、私は窓から目だけ出して見てた。空襲警報が出ると、学校は子供を追い出しちゃう。固まっていると爆弾が落ちたらみんないっぺんに死んじゃうから、お家へお帰りと言われてみんな、クモの子を散らすみたいに帰ってくるの。それに向かって米軍の飛行機は面白がって機銃掃射やるんだよ。狙い撃ちするんですよ。それを私達はまた2 階の窓から身を小さくして見ているんだ。何とも言えない。でも、涙なんか出ないわよ。もう涙も渇いているの。それよりお腹すくことのほうがつらいの。そのくらい飢えというのは大変なことだと思ったわね。

 そういう大変な戦争が終わったとき、きっと玉音放送を聞いたのだと思うけれど、私はポカンとしました。あの日すごくいいお天気でね、青空で。本当に何も考えもないでポカンとしたね。うちの亭主なんかは「これでジャズが聞けるぞと思った」と言ったけど、私はそんなの嘘だと思った。嘘だよね、あれ。そんなこと思えないよ。今までやってきたことは本当に何なんだろうと。本当に何なんだろうと思うの。言ったら、明るいところへポンと放り出されたみたいな感じ。

 何していいか分らないの。だって「おまえ達は明日死んでもいいんだ」と、学徒動員中には先生に言われ通してきたんですよ。「天皇陛下のためにおまえ達は死んでもいいんだ」と。うちの母はとんでもないと言ったけどね。そんなことされたらかなわないと、工場に行かないでもいいと言ったんですよ。軍事工場ですから、爆弾とか機銃掃射とかで狙い撃ちされるの。だけどそんなお母さんはめったにいないですよね。

 終戦が8月15日でしょう。その次の年までは学校も何も再開されていない。女学校3年から動員されて勉強なんか何もなくて5年のある夏の日、突然戦争が終わった。明日から何をしていいか分からなかった。夏に戦争が終わって、それから半年間遊んでたんだ。次の4月ぐらいに学校が再開されるという情報が入ってきて。初めは女子美というのがあるのだったらそこに行こうかと思った。でも、廃校になっていた。東京の女子美はあったけど京都の女子美はなくなっちゃっていたの。

当時の校舎

京都市立美術専門学校

京都市立美術専門学校[現京都市立芸術大学]というのはもともと日本画と図案科しかない学校なの。日本画は伝統があるでしょう。昔、絵画専門学校というのがあって上村松園さんとか、女性も入れたの。

 それがいっとき女性を採らなかったんですよね。どういう歴史なんだか、私分らないけど。そうしたら近所の、美術工芸学校に行っている男の子が、今年から女性を採るという情報をくれたの。じゃあ、受けてみようかって。女子美は絵画専門学校に吸収されたの。だから1級上には、そのまま女子美から試験を受けないで入ってきている女性が何人かいました。試験受けて入った女子は私達からなのよ。

 図案科に昭和21年4月に入りました。図案科って、洋画を描きたい人はみんな図案科に入ったの。そういう傾向があったの。日本画はすごい閥がある。堂本印象派とか、竹内栖鳳派とかいう閥があって、そこのお弟子さんになって、そこからまた試験受けて入って、先生に付いて、展覧会に出すときも先生の塾から行くという、日本画って伝統的にそういうのがある。私なんか突然東京の西部劇みたいな田舎から来て、そんなの入れるわけないじゃないの。そんな閥があるということも知らなかったの。美術学校があるということだけで行ったから、当然図案科に入ったわけよ。デザイン科だと思ったからね。デザインはデザインなんだけれど、京都の図案科は美術工芸なんです。漆工とか染織、陶芸、焼き物とか、美術工芸のデザインをするのが図案科の目的だったんですよ。だからちょっとは新しいことも習ったけど、グラフィック系はほとんど習っていません。

 私は何もかもが面白くて不思議で。カルトンも知らなければデッサンも知らない、何も知らないで入ったんだもの。木炭で描くことも全然知らなかった。塾も行ったことないし。小さい頃から絵を描くのが好きだったので鉛筆で描いて水彩絵の具で色を塗る。もしくはクレヨンで描くことしか知らなかったの。

 入試のときは花がいっぱい置いてあって。どれでも好きなのを取って、自分でそれを写生して描いて、次の日はそれを図案科して本の表紙にするとかそういうの。デッサンの試験とかなかったのよ。デッサンなんて知らなかったな。学校に入ってから知ったの。みんな上級生のやっているのを見て覚えて、親指を前に立てて測ってやるんだなんて思って(笑)。何も知らなかったのよ。

 私どうして入れてもらえたんだろうと思う。本当に不思議なの。女学校を東京から大阪へと転校したでしょう。鷗友学園で3年。それから大阪の学校へ移ったんですよ。そこでは学徒動員ばかり行っているから勉強していないでしょう。上の学校を受けるとき内申書を出さなきゃいけないのに。それがないの。

 東京は焼けたんだか、管理が悪かったのか、いくら連絡しても東京から書類を送ってもらえない。大阪は途中からだから、ちょっとしかないわけ。あと学徒動員で工場ばかりだから。成績表はないの。試験をやっている最中に言われましたよ。「あなた成績ないんだけど、どうする?」って。「入れるか入れないか分からないけど、やってみる?」って。やってみますと言って。あのときだから入れたのね。今なんか入れないね。

 1クラス30人採るのに百何十人は来ていた。うんと年上の人もいた。兵隊帰りとか、そういう人達も随分いました。うんと年下の人も。あの頃は勉強しないで繰り上げといって卒業させられた人ね。田中一光(注3)さんなんかもそうでしたね。年下だから。

 大学時代に「アトリエ座」という学生演劇クラブに入ったんだけど演劇に興味を持って入ったんじゃないの。入学したら勧誘されたの。自分はわりと何でも成り行き任せなんだけど、そのアトリエ座っていうのは伝統があるのよ。だけども知り合いの中には親御さんがすごく厳しくて絶対許されない人もいたわ。迎えに来ちゃうの。連れ帰っちゃうの。かわいそうだった、あの人。絵も上手かったし、声はいいし、いいなと思っていたんだけど駄目でしたね。演劇なんて軟派なことはしてはいけない、不良の集まりと思われてね。

 それと美術学校に行った4年間、何を食べていたか覚えていないの。おそらく人のお弁当ばかり食べていたんだと思うよ。戦後の昭和20年から25年ぐらいまで食べることが一番厳しかったわ。戦争中はまだ配給があったの。だけど戦後はそれが乱れちゃって、本当に何を食べたか覚えていない。ただひとつ覚えているのは、トウモロコシをバラバラにほぐしたもの。缶詰になんかなっていないのよ。ただバラバラとほぐしたニワトリの餌みたいなやつね。あれが配給になるんですよ。それをおじさんのところへ行ってポンしてもらうわけね。ポップコーンになるわけ。「ポン」というおじさんが来るわけよ(笑)。そうしないと食べられないでしょう。それが配給になると母が煎ってくれるわけよ。それがあまり軟らかくならないのよ。煎ったのをお弁当箱に入れて、持って歩くとすごい音がするの、ガラガラガラガラ。田中一光ちゃんとか粟辻[博](注4)さんとかが同級生だったんだけど、みんな宝塚ファンだからそれ持ってマラカス代わりにして踊るの(笑)。楽しかったよ。私のお弁当で踊ってさ、彼らのご飯は私がもらって食べた。1クラスに男の子は30人で、女の子は5人しかいなかった。1級下は女の子が1人もいなかったの。全部男だったの、だから女の人は大威張りしていたんです。美大の頃、京都の寺々はただで入れた。だからあちこち見て歩いた。

当時のスケッチ『夕鶴』

「自立劇団」での演劇活動」

4 年間で卒業してから1年間、私は「自立劇団」に参加しました。アトリエ座は学生劇団なので。別の劇団[喜劇座]をつくったわけ。私も創立メンバーだったんだけど、ちょっと絶望しちゃったわけね。

 いろいろ裏表があるわけですよね。アトリエ座みたいに学生がやる様な能天気なこととは別で、大人のもくろみとかあるじゃないですか。色恋沙汰もあるし、お金の問題もいろいろあった。そんなこと全然知らないで私は入っちゃったから。またあの頃は左翼運動がすごく盛んだった。アトリエ座時代も旅回りで紡績工場をずっと回っている別の劇団なんかに行くと、それはそれで「運動」があるわけですよ。私はこれがまた嫌だったのね。自分達だけで何だかこそこそ集まって会議する。その間、私達は放り出されるわけですよ。

 演劇活動を一緒にやっている仲でも、思想的な面に関しては別で、同じ劇団の仕事をしていても、党員というんだか何だか、私はその組織がよく分からないんだけど、旅先で「ちょっと出てください」と言われるわけ。教室なんかに泊まっていたのだけど私達はそこから出されてさ、彼らは自分達の会議をやるわけよ。それがまた嫌だったのね。それで、純粋に芸術至上主義の劇団に行ったらそっちは大人なのにつまらない色恋沙汰でもっていろいろなことがあるんですよ。それでもう全部嫌になって、全部辞めようと思って、鐘紡へ就職したわけ。

[鐘紡へ就職した頃、関西歌劇団[1949 年旗揚げ]が始動しており、公演の衣裳デザインを頼まれる。これは衣裳デザインの絵の展覧会が元宝塚歌劇団で当時朝日放送ディレクターの中西武夫(注5)さんの目に留まって、関西歌劇団の衣裳を頼まれたものだった]

妹尾河童さんと知り合う

グラフィックの関係で田中一光さんが、[妹尾]河童(注6)と私を引き合わせたわけ。当時河童は、舞台装置家ではなくグラフィックのデザイナーだったんですよ。

 関西では私は河童と一緒に仕事をしたことはないです。河童は朝日会館というところのポスターとかの仕事をやっていて。藤原義江さん(注7)が、お前、ちょっと装置描けと言って河童に描かせたら器用だから描けちゃったわけよね。それで河童はとても熱心に稽古場へ通って、オペラを一生懸命覚えちゃった。あの人はいまだに「ラ・ボエーム」を日本語で全部やれますよ。横で翻訳してくれるんだよね(笑)。

河童は藤原義江さんに来いよと言われて、先に東京へ行っちゃった。それで義江さんのお家に寄宿して仕事をやっていたのだけど、結婚もして、一応一軒家に食うや食わずでいましたよ。

若かりしきころの緒方(左)と河童(真ん中)

東京生活再開

昭和30年(1955年)ぐらいかな、私は上京して生まれて初めて大井町の離れを一つ貸してもらって下宿しました。

 親戚の家は留守番によく行きました。桃チャンのお家が旅興行に行っちゃうわけですよ。するとばあやさんと猫とご主人が残っている。だからたまに来てくれと言われる。

 桃チャンの衣裳はずいぶん繕ったり、作ったり、新しくしたり、アイデアもどんどん出したし。彼女にとっても私は結構便利だったと思いますよ。

 貝谷八百子さん(注8)の舞台も観てます、戦争前に。貝谷さんもトゥ・シューズ履いたって、トコトコ歩いているだけだったよね。そんなところから始まっているの。

イタリアオペラとスタッフ・クラブ

1956年にイタリアオペラの第1回日本公演をNHK が呼んで。そのときにいろいろな分野のスタッフがNHKの臨時要員みたいにして雇われた。NHKの人達だけでは舞台を創れないから。舞台のやり方を分かっている人達を呼んだの。だから俳優座の舞監さんとか、大道具さんとかも参加しました。俳優座だけじゃないのよ、いろいろなところが参加しましたよ。でも私その頃は松竹東宝の大道具さんとか、衣裳さんとか、知らなかったから。俳優座が多かったわ。それで衣裳も俳優座に発注したんだけど。俳優座はオペラの仕事なんて全く素人みたいなものなの。私はNHK側で雇われたわけで、それに音楽系の中で岩城さん(注9)とか外山さん(注10)とか林達(注11)が雇われて、河童と私が美術担当で。向こうからはスタッフが来ます、演出家とか舞監とか。美術デザイナーは来ないで絵だけが来て。それでそれを起こす役を私達がやったわけ。起こすというのは、実際に舞台装置になるように例えば図面の第1プランがデザイン画のどこにあたるのか振り分ける作業で。イタリア物だからすごいリアリズム。舞台美術がもっと抽象的になってくるのはドイツのオペラが入ってきてからです。イタリアオペラは絵に照明まで全部描いてある。それは本当に見事なリアリズムの絵でしたよ。例えば『アイーダ』なんかだったら膨らんだ柱のこっち側から照りが当たって、2番目はどっちから当たってみたいに、色が全部描かれているわけ。だからベタ明かりにしておいても立体感は出るんですよ。妙にいろいろなことをする必要はない。イタリアオペラってもともとそうですよね。歌舞伎みたいに。館のだまし絵の扉に女中さんが顔出している、あれみたいなものなのよ。全部描かれちゃってるの。伝統的だまし絵の国だから。だからとても絵が上手ですよね。それも私達には初めてで勉強になりました。また、そのときに集まったN響の岩城さん達とはそういうふうな集まりがない限り普段仲良くなるわけないじゃない、関係ないもの。そこではNHKの廊下に1部屋もらって、みんな一緒くたになって朝から晩までやっていたから仲良くなっちゃったわけ。それでイタリアオペラが終わったときにこのままではもったいないから、スタッフ・クラブっていうのを作ろうと。メンバーは、林光さん、妹尾河童さん、栗山昌良さん(注12)福永陽一郎さん(注13)、岩城宏之さん、佐々木忠次さん(注14)、外山雄三さん、高橋保さん、それから石井尚郎さん(注15)。

 でも1回目はね、向こうから持ってきた衣裳じゃなかったです。(イタリアオペラはその後1959年に第2回来日公演を行った)俳優座衣裳部が日本で作りました。一部はイタリアから持ってきて。衣裳のデザイン画は全部描いて送ってきた。そんなに感動的なものではなかったけど、実に丁寧なものだったの。でも全部はないのよ。例えばここに飾りを持った侍女が2人後ろ付いてくると。そのデザインが欠けていたりするわけ。それをみんな私が描き足す。そういう役に立っていたんだけどそうした仕事が終わると、俳優座に行って俳優座の仕事場で一緒に手伝っていました。

 劇団俳優座に衣裳部があったんです。[ドイツ式の劇場組織を目指した千田是也(注16)により設置された。千田は衣裳部をひんぱんに訪れていた]その頃は河盛[成夫]さん(注17)が責任者じゃなかったかしら。俳優座はNHKと大変コネがあったから。

 その時のイタリアオペラは4演目で。1956年は『アイーダ』と『フィガロの結婚』と『トスカ』と『ファルスタッフ』ですね。今でもそうだけど、作る側とデザインする側とはそう純粋にはいかないの。いろいろあります。私が工房を持っていれば工房を持っているで、やっぱり儲けなければならないから、そこでいろいろ矛盾もできてくるでしょう。だから私、工房持たなかったんだから。

工房を持ちなさいと何回か言われたの。場所も提供してあげようという方もいたの。だけど私、ただでさえお金の計算できないのにね、デザイナーなんて絶対いいものをつくりたいに決まっているじゃないの。私がやったら雇った人を全部食えなくしちゃって(笑)、追い出すような状態になってしまうから、とても駄目だと思ったの。工房は持ちませんでした。持った人も何人かいるけど、うまくいってないね。アーティストの面と実業家の面。両方は難しいですね。衣裳ってだいたい儲からないものですよ。東京衣裳でも、松竹衣裳でも、儲からないですよ、ね。衣裳屋さんは儲からないです。作っている人、縫製さんが辛うじて食べていけるかな。

コンテンポラリー・ダンス

ましてコンテンポラリー・ダンスだとかは好きでやるしか。私、大阪にいたとき好きでずいぶん観たんですよ。森田真弘さん(注18)という舞踊作家でダンサーの方のところには随分入り浸っていたんですよ。稽古も見るし、泊まり込んで衣裳も作って。鐘紡にいた何年間はそこに頻繁に行っていた。田中一光ちゃんはそこの家へ下宿までしちゃったんだから。そのぐらい私達が魅了されたダンサーがいたの。ダンス作家ですよね。私も、クラシックじゃなくて自由な踊りの衣裳をデザインしたのは森田さんが初めてです。

 ある意味で、私は森田さんから大変影響を受けた。今あまりお名前挙がらないですけど、でも……。大阪の小さいところでやっている人なんて、20年も30年もたっちゃったら、何の扱いもされない。でも私にとっては本当に素晴らしい方でした。

東京での初仕事と京田進カンパニー

東京に出てきたばかりのとき『パリアッチ』と『カヴァレリア・ルスチカーナ』(同1956年)をオペラのプロデュースをする事務所の京田進カンパニーで上演しました。河童の言葉にのって上京したものの、仕事がなくて。それならばというので彼が私を連れて行った仕事が、3日でデザインを2本描けというもの。オペラを2本。『カヴァレリア』と『パリアッチ』。なぜならば栗山昌良という演出家が今描いているデザイナーの絵が気に入らないのだと。だけど、だからといってどうすればいいのか分らないし、ちょっと描けよというので3日で2本よ、オペラで。でも関西オペラ[現関西歌劇団]で私は両方やっていたんですよ。

 『カヴァレリア・ルスチカーナ』と『パリアッチ』はだいたい組んでやるオペラだけど、関西オペラのときにそれをやっていた、だから覚えているし解っていた。それも徹夜して描きましたよ。

 京田進カンパニーというのはもうありません。音楽事務所というのはかなりやっていても、亡くなったらもう続かない。京田進さん亡くなっちゃったから。佐々木忠次さんは京田カンパニーにいた人なんですよ。佐々木さんは事務員か何かでいたの。けどあの人は頭の回転早いし、舞台が好きだったから、じゃあ、お前舞台につけって舞監に就いたのが最初よ。もともとはメッセンジャーボーイみたいに京田さんの走り使いをやっていた。

 当時京田さんはオペラの伝統を持っているような外国から、結構いろいろなところを呼んだんですよ。でも結局お金が払えないで、横浜から帰っちゃったとかね。私達は待てど暮らせど出演者が来ないんで(笑)、共立講堂の前でずっと待っていたことがあったの。藤原さんもギャラを未だに払っていないと楽屋で小さくなっているとかさ。昔は、お金の都合でグループではなくて個人を呼ぶこともあるわけ。グループのときは帰っちゃいましたよね。ギリシャのオペラの人だったかな。もう借金、借金で、京田さんはオペラができなくなっちゃったんですよ。

オペラの仕事

オペラの衣裳というのはどこからも学んでいないの。当時歌を聴くというと、レコードだから断片よ。アリア集とかはあるけれども、全曲オペラというのはめったにない。自分が仕事をやるようになってから全曲のレコードのあるものは聞かせてもらったよ。台本みたいなものが出るようになったのはだいぶ後よね。『対訳オペラ全集』とか。平凡社で出したんですが。あれができるまでは知識はほとんどなくて、私が知っていたオペラの音楽はアリア集だけ。ストーリーとかもシノプシスくらいしか知らなかった。だから関西オペラ第1回公演のときは、中西武夫先生と朝比奈隆先生(注19)にとても親切に教えていただきました。こっちも分からないから、くっ付いていって何でも聞くわけだけどね。そしたら朝比奈さんが映画を観る会をやってくださって、白黒の映画でしたけど、『ラ・ボエーム』だとか。スタッフみんなで観ましたね。

中西先生は読むべき本も教えてくださったし、私はそういう方達にずいぶん指導してもらいました。指導というよりこっちが勝手に付いて行くんですけどね。何でもかんでも質問すれば本当にみんな先輩方は親切だったわね、今から考えたら。西洋服飾の歴史や文化、時代物のドレスも独学。私は戦時中の女学生だから西洋史も東洋史も1 頁も教科書を開いていない。ファッションの歴史として大きな流れは絵画集とか映画から組み立てたかな。買えない時は手書きでコピーして。ちょっと地方の事になったらもう分からない。日本に詳細な服飾史の本もないし、各地には、独自の風俗習慣があるでしょう。未だに知らないことだらけ。だから分かったつもりでいても、とんでもなく分かっていなかったりする。洋裁学校だって服飾史を教えないもんね。洋服の歴史を学ぶべきよね。日本に洋服が入ってきて、たかだか100年も経っていないのよ、ね。それも一般的には太平洋戦争以降からですよ。

チャイコフスキー記念東京バレエ学校

1960年にチャイコフスキー記念東京バレエ学校というのができました。そこにソ連から教師が派遣されて、まず1961年に『くるみ割り人形』、ロシアのバレエを日本人に振り付けた。1962年に次の『まりも』という日本の民俗文化を取り入れたバレエを上演して、両方ともスタッフ・クラブの仕事でした。でも『くるみ割り』の衣裳をデザインするにあたってロシアからの資料などは全然来ません。『くるみ割り』はいろいろな方に聞いてある程度の知識は得ましたけど。谷[桃子]バレエ団に有馬五郎さん(注20)がいたんですよ。有馬五郎さんと私とても仲良かったの。有馬五郎さんは演出家でもあるし、彼からいろいろ本も見せてもらったし。ディアギレフのバレエ団のやったものは、資料として残っています。『白鳥湖』とかはないですよ。ディアギレフ(注21)がやっていないから。私、あの頃は、何はなくても銀座へ本を探しに行っていた。下駄ばきで。

『まりも』デザイン画

ディアギレフの本を買っちゃった帰りに電車賃が10円足りなくて。下宿のある大井町の駅で「すみません、家にお金取りに行ってきますから、ちょっと貸しておいてください」と言ったら、隣で乗車券を買っていた人が10円くれた事があった。昔、10円区間というのがあったの。山手線10円区間。大井町だけちょっと飛び出しているでしょう。そこまでは10円でどこでも行けたのよ。あ、20円だったかな。何しろ持っていれば山手線全区間行けたから。本買っちゃって10円足りなくなったの。そのくらい本は私にとって必要不可欠だった。どう読むのか誰にも教えてもらえない、言葉も分からないのにね。『ル・バレエ』(Boris KOCHNO avec lacollaboration de Maria Luz, Lithographiebriginale de Picasso, Le ballet, Hachette,(Paris,1954).)はその頃に手に入れられたもの。ここにバレエって書いてあるでしょ?ボリス・コフノというディアギレフの秘書をやっていた人がまとめた本で、バレエのできたところからの歴史についてですよね。私は知識とか美しいものに飢えていたの。欲しいものが見つかると前後も考えずに手に入れたい。私は歴史は絵として覚えた。そうすると覚えやすいの。流れに無理がないの。私にとってはそういうのが知識の基で、早稲田大学の演劇博物館に行こうかなと思ったの、教えてもらいに。そうしたらないんだってね。演劇博物館ではそういう授業のようなことはやってないんだってね。

私達はメッセレルさん(注22)とワルラーモフさん(注23)のお二人と作品を創ったんです。だけど今でも皆さんメッセレル先生のことのほうをよく覚えていらっしゃるし、記録に残るっているでしょ?でも作品を創ったのはワルラーモフ先生ですよ。ただあの人、今一番問題になっているウクライナの出身なんですよ。だからすごい差別を受けていました。もう見るからに。気の毒だった。メッセレルさんは人民芸術家とか勲章を持っているみたいなの。それは素晴らしいダンサーでしたよね、メッセレル先生は。『ドン・キ[ホーテ]』(1965 年、谷桃子バレエ団)なんかを稽古で教えている時も今でも踊れますと言っていた。本当にそれはそうだけど。作品を創ったのはワルラーモフ先生よ。『まりも』なんか特にそう。メッセレルさんは部分的にしか創っていらっしゃらない。

 『まりも』はアイヌの創作伝説を基にしたバレエということで、アイヌの民族衣裳の模様を入れました。まりも役の衣裳はね、あれはちょっと本意じゃないの。今だったらきっとみんなにも分かってもらえると思うけど。別珍か何かのわりとしっかりしたボディに、まりもみたいにまん丸のスカートをつけたかったの。ただ、すぼまっちゃったらみんな足上げられないじゃない。ところが私はそれを考えたんです。半月型のチュールを全部はぎ足していって、土台はシルクの薄い羽二重みたいなのに、たたく。そうすると伸びるんですよ。でも、立ったときは真ん丸なの。今ならこういうことも分かってもらえると思うけど。その時は全部ぺちゃんこに、普通のチュチュにつぶすことになっちゃったの。ワルラーモフ先生は新しいチュチュってすごく喜んでいたけど。メッセレルさんが振り付けするときに、全部つぶしてしまったの。あの方はなんでも振り付けするときに向こうのビデオを持ってきて、全部それの写し。見てくださいと言って。だから私、むくれてやらなくなっちゃったの。

 「これは何十年も前のモスクワでやったものでしょう。今、日本でやるのにこれは違うでしょう、ダンサーも違うし」と言っても「いや、これ本物です。これ本物です」と。

 谷桃子バレエ団の『シンデレラ』(1991年)のときなんかも本当に嫌だったわね。谷バレエ団の。『ラ・バヤデール』(1981年)もそうよね。「ビデオ見てください」って。もうこれのとおりにやればいいんだと。デザイン画も何もないですよ。ワルラーモフ先生はそうじゃなかった。

 ただ、日本と体制が違うから非常に困ったのは、ワルさんは「振り付け考えている間、稽古場来てください」と言うの。稽古場へ来て、一つ一つ踊りができていく段階を見ていて、それでこうしたらいいでしょう、ああしたらいいでしょうと一緒になって衣裳を考えてほしいわけよ。でも日本でそれやっていたら私、食べていけないでしょう。作品を創っている間、稽古場へ通わなければならないとなると、何カ月間、他の衣裳を何も考えられないわけだから。ボリショイ劇場にお勤めしている人ならできるでしょうが。ただ私自身は、本来は稽古見ながら作るべきだと思うの。

森田さんのところに入り浸っちゃったのはそれがあったから。だってコンテンポラリー・ダンスのって文字で説明もできないですもの。バレエだったら動きの名前がせめてあるけれど。「しゃべれたら踊らない」と言って怒られたもの、私(笑)。そうやって作っていくというのが、舞踊のものは本来そうであるべきだとは思いますけれども。

 ちなみにアイヌの民族衣裳の雰囲気であっても短くするというのはやはり踊りやすさですね。物によっては長いのもありますけどね。

例えば鶴の舞を踊る人は丈が長くないと[背中越しにまくりあげて]使えないから。長い着物の丈に。東京バレエ団であとで使われるようになった、鶴の踊りで手を広げると布が垂れ下がる感じの衣裳は私のじゃないのよ。

 東京バレエ団は外国へ公演しに行ったり、何回か公演しているでしょう。ソビエトにも出たでしょう。あのとき大げんかしちゃったんですよ。だからほかの方がデザインしたとかいうのもありました。見に行ったら、結局いいとこ取りして部分的に自分達で作っていましたね。それこそ裁判にするとかと騒いだことがある。佐々木さんは今でも怒っていると思う。私はもう怒っていないけどね。だけど『まりも』に関しては無断上演ですよ。私にギャラを全然払っていない。だから『まりも』の最初の頃は私の名前が書いてあるけど、その後からわりとすぐ違う人の名前が挙がっている。

『シンデレラ』デザイン画

注釈

注1)本インタビューは早稲田大学演劇博物館演劇映像学連携研究拠点(テーマ研究「舞台芸術 創造とその環境 日本/世界」、研究代表者:藤井慎太郎)の活動の一環として実施されたものである。本稿のために再構成、編集を行った。もとのインタヴューは次のページに掲載されている。「早稲田大学文化資源データベース:日本舞台芸術オーラル・ヒストリー・データベース」https://archive.waseda.jp/archive/detail.html?arg={%22subDB_id%22:%22160%22,%22id%22:%22160:3%22}&lang=jp

注2)谷桃子(たにももこ 1921年-2015年) バレエダンサー、緒方規矩子の従姉

1949年に谷桃子バレエ団を設立。戦後の日本バレエ界を代表する踊り手の一人として活躍した。谷桃子バレエ団芸術監督、第3代日本バレエ協会会長。

注3)田中一光(たなかいっこう 1930年-2002年) グラフィックデザイナー

京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)卒業後、鐘淵紡績、産經新聞を経て、日本デザインセンター創立に参加。田中一光デザイン室を主宰。

注4)粟辻博(あわつじひろし 1929年-1995年) テキスタイルデザイナー

京都市立美術専門学校( 現京都市立芸術大学) 卒、鐘紡紡績入社。その後、粟辻博デザイン室設立。多摩美術大学教授に就任。

注5)中西武夫(なかにしたけお 1908年-1999年) 劇作家、演出家

ドイツに留学し、帰国後宝塚歌劇団で演出と脚本を担当。大阪の朝日放送に入り、「部長刑事」などを制作・演出。大阪芸大教授も務めた。

注6)妹尾河童(せのおかっぱ 1930年生) 舞台美術家、エッセイスト

大阪朝日会館企画宣伝部のグラフィックデザイナーとなり、オペラや芝居などさまざまなポスター、パンフレットの表紙を手掛ける。藤原歌劇団の主宰者・藤原義江に誘われ、オペラ『トスカ』で舞台美術家としてデビュー。小説「少年H」が大ベストセラーを記録、毎日出版文化賞を受賞した。

注7)藤原義江(ふじわらよしえ 1898年-1976年) オペラ歌手

新国劇に参加した後、浅草オペラで活躍。イタリアに留学し、欧米各地や日本でリサイタルを行う。米ビクターと専属契約。1934年日本で藤原歌劇団を組織、多くのオペラ作品を日本初上演し、日本のオペラ運動を推進した。

注8)貝谷八百子(かいたにやおこ 1921年-1991年) バレエダンサー

1938年に貝谷八百子バレエ研究所、のちの貝谷バレエ団を組織する。1946年、日本初の『白鳥の湖』全幕上演の際に主役の一人を務めた。1965年に貝谷芸術学院を設立、主宰。

注9)岩城宏之(いわきひろゆき 1932年-2006年) 指揮者

器楽科に進学するも、齋藤秀雄の下に通うなどして指揮の基礎を学ぶ。N響終身正指揮者として活躍。また、バンベルク交響楽団などで指揮者を務めた。ウィーン・フィル、ベルリン・フィルなど世界のトップオーケストラの客演指揮にもあたった。

注10)外山雄三(とやまゆうぞう 1931年-2023年) 指揮者、作曲家

声楽家外山国彦氏の三男。間宮芳生氏、林光氏と「山羊(やぎ)の会」を結成し、作曲活動を始める。NHK交響楽団指揮研究員となり、指揮者としてデビュー。和太鼓やちゃんちきなどの邦楽器も採り入れた「管弦楽のためのラプソディー」を書き、自ら指揮をしたことを機に、指揮者と作曲家の両面で国際的に知られるようになった。N響正指揮者。

注11)林光(はやしひかる 1931年-2012年) 作曲家

1953年、間宮芳生・外山雄三氏とともに「山羊の会」を結成した。同年『交響曲ト調』により芸術祭賞受賞。オペラ、映画音楽、劇音楽など多分野の作曲を手がけた。オペラシアターこんにゃく座芸術監督兼座付作曲家。

注12)栗山昌良(くりやままさよし 1926年-2023年) オペラ演出家

俳優座に入団し、青山杉作に師事する。二期会「オテロ」で青山の助手を務めたことをきっかけに、オペラ演出家になる。数々の日本人作曲家の作品上演に携わり、「蝶々夫人」は希代の名演出として繰り返し上演されている。「東京室内歌劇場」を創設。文化庁オペラ研修所所長、新国立劇場オペラ研修所講師。

注13)福永陽一郎(ふくながよういちろう 1926年-1990年) 指揮者

近衛秀麿氏に作曲法・指揮法・管弦楽法を師事。プロ合唱団東京コラリアーズ常任指揮。藤原歌劇団常任指揮。卓抜なピアノ伴奏で「フィガロの結婚」「カルメン」など数多くのオペラ初演を実現した。

注14)佐々木忠次(ささきただつぐ 1933年-2016年) 舞台監督、インプレサリオ、著作家

NBS公益財団法人日本舞台芸術振興会/東京バレエ団代表。東京バレエ団による海外公演を数多く実現させた。世界有数のバレエ団、歌劇場を日本に招聘し、観客が日本にいながらにして世界のトップレベルの芸術に触れる機会を創出した。

注15)石井尚郎(いしいひさお) 日本の照明家

注16)千田是也(せんだこれや 1904年-1994年) 演出家、俳優、デザイナー

注17)河盛成夫(かわもりしげお 1919年-2001年) 衣裳デザイナー、演出家

注18)森田真弘(もりたまさひろ) 日本のモダン・ダンサー 

注19) 朝比奈隆(あさひなたかし 1908年-2001年) 指揮者

ヴァイオリンをアレクサンドル・モギレフスキー、指揮をエマヌエル・メッテルに学ぶ。新交響楽団(後のNHK交響楽団)を指揮してデビュー、戦時中は中国の交響楽団で活動、戦後の1947年に関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽団)を創立、総監督及び常任指揮者を務めた。

注20) 有馬五郎(ありまごろう1922年-1993年) バレエダンサー、振付家

谷桃子バレエ団の設立に参加。昭和50年文化庁研修員として英国と米国に留学。小牧バレエ団、谷バレエ団、東京シティ・バレエ団公演などに出演。全日本舞踊連合常任理事、東京バレエ協議会理事。

注21) セルゲイ・ディアギレフ(Сергей Павлович Дягилев 1896-1929) 興行主、編集者

美術雑誌『芸術世界』の創設者のひとり。1909年からバレエ団「バレエ・リュス」を率いて世界ツアーを行った。世界の名だたる音楽家、美術家、画家、デザイナーらとのコラボレーションを実現させたことで高く評価されている。世界の芸術界に幅広く大きな影響を与えた。

注22)スラミフィ・メッセレル(Суламифь Михайловна Мессерер 1908-2004) ソ連のバレエダンサー、教師

ソ連邦人民芸術家。ボリショイ劇場で多くのレパートリーの主役を務めたのち、モスクワ舞踊学校で指導を始めた。チャイコフスキー記念東京バレエ学校の初代教師として、1960年に初来日。以降、日本各地のバレエ団やバレエ教室でロシアバレエの普及に尽力した。1980年に亡命をすると、イギリスを拠点に世界のバレエ団およびバレエ学校で指導を行った。

注23)アレクセイ・ワルラーモフ(Алексей Алексеевич Варламов 1920-1978) ソ連のバレエダンサー、振付家、教師

ソ連邦功労芸術。ボリショイ劇場でダンサーとして活動。国立舞台芸術大学(GITIS)の振付科卒。チャイコフスキー東京バレエ学校の初代教師として、1960年に初来日。ボリショイ劇場およびモスクワ舞踊学校で指導を行うほか、主に国内で振付作品上演した。

日本舞台芸術オーラル・ヒストリー・アー カイヴ・プロジェクト(注1)
@緒方規矩子氏アトリエ
2014年12月21日
同席者:伊藤雅子、清野佳苗、西原梨恵
聞き手:斎藤 慶子、深澤 南土実

プロフィール

緒方 規矩子

緒方 規矩子

緒方 規矩子

OGATA Kikuko

衣装

東京府日本橋生まれ。京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)図案科に学ぶ。在学中から演劇に傾倒し、クラスメートの田中一光や粟辻博等と「アトリエ座」という学生演劇団に参加。美大卒業と同時に新たな劇団「喜劇座」を起こす。鐘紡勤務をへて、舞台衣裳デザイナーとして1952年、関西歌劇団の『椿姫』でデビュー。以後...

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