対談「仮面と衣裳」速藤啄郎 緒方規矩子 笠井賢一(進行)
なぜ仮面劇を始めたか
ー笠井では始めに何故仮面劇を始めたかを
遠藤 今、何故仮面劇かと、よく聞かれるんだけれど、単純に言えば仮面があって、仮面が面白かったから。船で芝居するのも船があったから。そして何故「マハーバーラタ」かといえば、これもマハーバーラタがあったから。結局、前衛劇とかいろんなものがあって、新しくするとか破壊するというのではなく、逆に昔からあるものの見直しや取り直しからはじめて、表現の一手段として、仮面を使うことになっていった。理屈はいろいろつけようがあるけれど、僕はもともと心理劇への興味がなくって、必然的に仮面や人形、生演奏との対応という演劇の手法をとった。つまり、近代劇でないものという前提のもとに演劇を考えていった時、仮面に魅せられ仮面を使うということが生まれた。
緒方が仮面をつくっており、それが手近にあったということもある。自分自身も仮面を創ることに興味をもった
し、そこから仮面劇、仮面を使ってのレッスンには、どらいうことが必要かということが生まれてきた。
ー笠井 緒方さんと仮面とのかかわり合いは
緒方 啄さんと私とはちょっと違うのね。啄さんは具体的には仮面があったから、仮面劇という発想になったみたいだけど、私の場合は、仮面が創りたくて。最初は踊りのために創った。芝居のためという発想は全くなくて、舞台上での様式とか装飾という意識から、仮面そのものが面白くて創りだしたんですよ。
創ってるのを見て、それを使って豚さんが芝居をやり出した。彼が面を創り出す様になって逆に私が創らなくなって、「小栗判官・照手姫」からまた少しやり出して、「マハーバーラタ」は、創りたいというのがはっきりあったわけです。
笠井 最初に仮面を使って手がけた作品は何でしょう。
遠藤 「極楽金魚」(初演1967年)ですね。あれは緒方が仮面も人形もつくった。
緒方 「極楽金魚」の場合は、人形を仮面を先に私がつくっちゃって、それを彼が使ったという感じね。演出や注文に合わせてつくったというより、逆に先につくってしまった。
遠藤 だから人形や仮面を表現する方法論が先にあったわけじゃなかった。人形のきせかえを芝居にしようというアイデアはあったけれども。
そのあとが「夕やけぐるみのうた」(初演1975年)ですね。爺、婆の二つの仮面をつかった。これも緒方がつくった。
この「夕やけぐるみのうた」の段階で、どうしても仮面を使うということが全面にでてきた。そこで出演者がいろいろレッスンを始めたわけだ。そうすると仮面がないとできないし、今みたいに数もなかったから、僕もレッスン用の仮面をつくったりした。そして現場で、仮面の表現と役者の体との問題を検討しながら、仮面の機能性や造形性をためすことになった。
ー笠井 そういうレッスンを通して、仮面を使っての大きな芝居というのは
遠藤 やはり「小栗判官・照手姫」じゃないですか。「やし酒飲み」でも使ったけれど、あの作品のためにつくったものだけでなく、レッスンで使ってたものや、他で使ったものを流用しながら。半々ぐらいだったかな、新作は。
ー笠井 「エスコリアル」は?(ボートシアター前身「アトムの会」1979年上演作品)
遠藤 あの面は青年座の「あえぎさまよう鹿のように」のためにつくった。
緒方 青年座のは衣裳と同時に仮面のデザインもして、仮面をつくるのを豚さんに発注しました。
遠藤 そう。あれは注文でつくった。あの頃から僕の仮面づくりがやや本格的になった。
緒方 それに技術的にも、だんだん私よりうまくなったから、お願いするようになりました。
仮面のつくり方
ー笠井 現在のボートシアターの仮面づくりというのは、石膏で各役者のライフマスクどりをして、その上に”油”(粘土)で型をもりあげ、和紙を幾重にも木工用ホワイトボンドで重ね貼りする。仕上げには、胡粉を塗ったり、皮を貼ったりしてできるわけですが、仮面の製作上の技法的変遷については
緒方 ホワイトボンドを初めて知ったのは、カネボウに30年前頃、私勤めてまして。
「新しい接着剤で、防水にもなるし、乾いてから弾力性もある」。当時は、通気性もあるということだったの。何か面白い使い方はないかと一瓶もらったわけ。その頃仮面を創り出してたんだけど、それまでは、原型を石膏取りして凹型に張子紙を押し込む凹型取り、どうしても型があまくなっていやだった。そんな時にちょうどボンドとめぐりあったわけ。おまけにカネボウだから面白い繊維やなんか手に入った。演じる人の顔を石膏取りして凸にし、その上に油士でデザインして、最後まで凸の型を使って、何枚も何枚も和紙を重ねて。和紙で彫刻してゆくみたいに。
その接着にボンドを使ってみたわけ。だから油土が良いのです。ボンドが水性だから。その頃は、顔一面にビーズをうめこんだり。薄い布を皺だらけにしてつかったり、鳥の羽根でうめたり、いろいろやって見たの。でも当時の面はあくまで装飾的でね。顔と体と頭、仮面と衣裳と被り物がトータルに一緒にくっついちゃってるようなものをつくったりしていた。
それに、ボンドが何でいいかというと、体の温度で柔らかくなるし。張子紙で型どりしたものだと、顔にあたった部分と面がなじまない。ボンドだと、ぴたっと顔に吸いつくように合って、踊る人達なんか具合がよかった。それでいくつかつくった。仕上げは水彩したり、日本画の絵の具使ったり・・・・・・
遠藤 仮面の凸型どりの手法というのは、張子の人形つくるのと基本的には同じで、非常に古くはそういうつくり方の能面もあった。和紙を重ね合わせて漆で固めて。
一つ位は現存してるらしい。
緒方 和紙の重ねばりで人形つくってた時、辻村ジュサプローさんに言われたんですよ。そんなつくり方してるの、今九州に一人しかいないって。一つの型でーコしかとれない。効率がわるいわけ。ボートの仮面もそういう創り方してるでしょ。そのかわり、最後まで手が入る。自分の神経がとどくんです。
遠藤 和紙というのは、乾くとぎゅーと喰いつくように縮んで、形がはっきり締ってくる。それが利点。ただね、どうしてもひずむんですよ。木彫りと違って。
この間、照手の面がひずんできちゃった。あれは厚く和紙を貼りこんでなかったせいもあるけれど、再々演の時、一度胡粉をおとしてぬりかえをしたんですが、裏側に通気性のない油性のものを塗ってあるからか、頼が全体にあがってきちゃった。
胡粉は水を使うし、全体に水がしみるものならいいけど、裏側に汗止めの油性のえのぐを塗ってあると、胡粉との収縮度の違いが出る。相性としては木と胡粉が一番いいんだけど、木彫りは高度の技術が必要だから。
うちの面の利点は、誰もがつくれる、そして軽い、皮膚になじむ。使うということを考えると一番いい。ただ時間がたつとひずむ。永久的に飾っておくものではなくて、それをつけて動いて、そのためのものだね。
緒方 当初私なんか和紙を細かくして、何枚も何枚も張る、苦労しましてね。今ボートのメンバーがやるようになって、和紙の貼り方も技術的に進歩しました。凹凸のある面も、継ぎ合わせなく一枚で貼っちゃったり、私なんかより、ボートの人の方がうまくて。あんまりきれいに貼ってあるから、その和紙の素材だけで仕上げたいと思ったりする程です。
ー笠井 仕上げは胡粉とか皮のようですが
遠藤 僕が創り出してから加えたのは、皮を貼るということだね。イタリーのピッコロシアターのコメディアディラルテ風の面を見て。あれは皮製です。皮の材質が面に向くということもあって。補強という点でもよかった。
演者が肌を出すような場合はなじみもよい。人間の体と合うんだ。ピッコロの仮面は、木の凸型に皮をたたきのばして作る。全部皮で出きてるんだけど、形が鈍くなる。
ー笠井 皮貼りも初めは何枚も細かいのを?
遠藤 最初から一枚貼り。ものによっては何枚か重ねて、それは面によってだね。皮の材質によっても違うんだけど、何枚も重ねた方がいいものと、一枚貼りのものと。
今度の「マハーバーラタ」は、ほとんど皮貼り。ウタリだけが胡粉仕上げ。
緒方 皮の方がちょっとリアルっぽい柔らかさがある。
胡粉仕上げは、神とかちょっと象徴的なもの。“てり”とかが違うんですよね。皮がいいか、胡粉がいいか、それは役どころに合わせて使い分けしてる。
その他仕上げでは、紙をさきに染料で着色したものを使ったり、水彩で画いた上にボンドでとめたり。いろい
ろね。
遠藤 丈夫さと質感という点では、皮が一番いいかね。
緒方 ただ皮は書き直しができないんですよ。
遠藤 一番使いやすい白の国産ヤギ皮が最近手に入らなくて。問屋にもないんだよ。
仮面を付けるには
ー笠井 近代劇の逆を志向し、仮面を使うためのレッスンが必要になってきた。そこでレッスンにおける語りの問題、役者の肉体という問題をからめて、具体的にどのような試行錯誤をして今に至っているのでしょうか。
遠藤 仮面をつけて動くということは、ふつうの芝居をしてきた人には、とっつきにくい、人によっては抵抗がある。
ただ、ある様式に至る表現を探していったときに、仮面は一つの手段として非常によいということもある。仮面をつけるレッスンの中で、仮面によってどういう風に役者が開かれてゆくかということに興味があった。機々な仮面を使って動くことによって見えてきたものが面白くて、それは当然仮面をつくることと一緒にやってきたんだけど、それが今のボートの動きというものを形成してきた。
完成したというんじゃなくて、一つの表現の方法というものが、仮面をつけてみることでみえてきた。
仮面をつけて動いてみて、それは能のように動くんではなくて、もっと素朴な所で、その仮面から触発されて自由に動くとか、音楽によって触発されて動くとか、レッスンの中でやっていくうちに、仮面と体がつながってくる。
仮面にたいして持つそれぞれの俳優のイメージというものは、千差万別だけれど、どこか共通する表現も見えてくる。それは、いったい何だろうと、掘り下げていつた所から、ある物語が選ばれたり、全体の構成も選ばれてくる。仮面の造形も、それと共に変わってくるということが、この7~8年のなかでやってきたことだと思う。
緒方 私は日本の演劇は、やはり仮面劇と思います。古い形では、能、狂言、お神楽、歌舞伎にしても、古いものになればなるほど、一種の仮面劇だと思う。京劇のメイクも、形式自体が仮面劇の方じゃないかな。
文楽も、人形劇だけど、生の人間ではできない。音楽と語りと動きに、ある様式を持たないとできない。
私は西洋の芝居は近代劇しか知らなくて。コメディアディラルテとかギリシャ仮面劇なんて知らなかった。
それで西洋近代劇ではない演劇空間を今の新しくつくる芝居の中でできないか、ということが願望としてあったと思うの。それは日本人にとって無理のあるものじゃないんではないかしらと。
遠藤 仮面劇を自分達がやりはじめて感ずるのは、能のように高い完成度をもったものではなくて、雑ぱくな仮面劇、誰でもがやれるものということは、最初考えた。
緒方 それが、具体的に、ぱっとみられたのが、バリの芝居だったわけです。あそこでみた時は驚嘆した。能のように高度に洗練されて、しかもとっつきにくいみたいなものと違って、全く日常性、それをまた一つ様式化してあるわけ。そのあまりの見事さに、腹をかかえて笑いながら、なおかつ違う空間にいけちゃうっていう、飛べるというか。
遠磨特にバリの面でいえば、神様とかでなくて、道化や民来で使われている半面、それが面白かった。
白くきれいに塗り上げられた王様の面より、半面で、言葉も発し、飛んだり跳ねたり、踊ったりもする道化や民衆、片輪の面がとっても新鮮だった。
面の造形からみると、高度な美術的な面だとは思わないし、内面性を表わしているものではなく、非常に端的に人間のある一部分を強調して出している面に、僕は刺激を受けた。
緒方 古い伎楽面は、演劇的というより、舞通的で、面が存在するだけでいいというか、あまり喋ってはほしくない。ところが、バリの面はつけて何かやんなきゃいけないのね。つけてみないと、いい面か、悪い面かわからない。そういう意味で、演技者と仮面との関係が面白いと思ったわね。
遠藤 現在も、観光化されたとはいえ、芸術の枠にも入らず、権威づけもないし、つくる人はいっぱいいるし、実際つくったものをすぐ祭りで使っているという、日常と仮面が機能しているのが、まだ残っている。
日本では能面のように別格になっちゃった。近代劇やバレエでは、コメディアディラルテのように西洋的な使い方をされる。そうではなくって、日本の役者がつけて、今様をやったり、神様にもなったり、超越的な世界をも描いたりと、そういう仮面をつくってゆきたいと思うね。
そういう意味で、バリの面は、端的に馬鹿馬鹿しかったり、つけて動きたくなるということでは、比類がないよね。
ー笠井 話はもとに戻りますが、仮面のレッスンの中で、道化のレッスン、中性面のレッスンなど、ルコックのシステムを通過したわけですが
遠藤 ルコックのシステムをレッスンの中で取り入れても、ある限界がきちゃう。 本質的な部分で違ってきちゃう。ただ、何の予備知識もなく仮面をつけてやろうとすれば、ある合理性をもったレッスンのシステムが必要なんだよ。
そういう意味では、よくできたシステムだった。我々が、能をやるとか日舞をやるのではなく、現代劇という場ではヨーロッパと変わりない立場でもあるわけだから、仮面をつかっての方法論を組み立てた人がヨーロッパにいて、それをこっちが取り入れたというのは、ある必然でもあるね。
ー笠井 方向性として何か予感のようなものは
遠藤 この間もちょっと話してたんだけど、文楽・人形劇みたいなものを役者が観てみる必要があるんじゃな いかと。かつて歌舞伎の役者が文楽から学んだものがあったじゃないですか。面は、日常性を離れた飛躍した動きがどうしても要求されるので、文楽とかそういうものがヒントになるのではと思っている。と同時に、役者が肉体の訓練をして、ニュートラルなところから表現の可能性を拡げてゆかなければならないと思っている。
緒方 私は、具体的な訓練の方法はわからないけれど、役者が仮面と拮抗する肉体の可能性のギリギリまで試してもらいたい。思ったように動けないから、適当なところで動かしてると、お神楽までもいかないんですよ。ただ面をつけただけでは仮面劇にはならない。体を自分の思うように動かせるようにしてほしい。
遠藤 それは“ことば”にもいえるね。
緒方 能は、肉体的にも、両自体も、両方がためこんでる。中からふくらんでるような強さがあるでしょ。だけど、私たちがやろうとしているのは、もっと外へ出そうとしているんだから。
遠藤 エネルギーを外に出しながら、日常性から非日常性までいける肉体の幅があって、自在に伸び縮みできる。「小栗」に比べて、「マハーバーラタ」は面自体も強くなってるんですよ。造形そのものが。それも含めて、役者がその仮面に拮抗し、対応していく“動き”と“ことば”を見つけてゆかねばならない。
ー笠井 声の問題で、もう少し具体的には一
遠藤 表情で勝負できないから、言葉が明確で、口跡がはっきりしてることは、当然要求される。顔に強烈なものをくっつけられるわけだから、自分の思いだけでは表現できない。醒めた的確な表現を持たないと。当然、動きでも声でも、ある可能性を拡げてゆかないと、自己満足的な、単に情熱だけの演技になっちゃうんじゃないかな。だから、ことばも、音的にも質的にも、多様化できる、多面的なものを表現できる声、セリフ術というものを、身につけていかざるを得ないんじゃないかね。
心理劇なんかは、一つのキャラクターで通しされる部分がある。ボートでは、客観的に語りつつある役になったり、地の文とセリフの部分が物語のなかに含め られる。そういう要素を含みこめてゆける語り術というものが問われていかなければならないし。それが義太夫とか、既に様式のあるものではないから、各々の俳優の中で開発していかないと。仮面が強くなればなるほどアップアップしちゃうんじゃないかな。
ー笠井 近代劇は、キャラクターがあり、一つの人格の幅みたいなところに限定される。
遠藤 それと自分との重ね合わせですんじゃう。
ー笠井 「語り」の世界はそれを壊していく。無人称から草木、野獣、人間に至るまで。しかも人間も様々な人格の飛躍があって、そこを行き来することが、演劇の奥行であり、そのための“仮面”、語る力の必要性ということですね。
ーそのあと、にっちもさっちもいかなくなって、 別なレッスン の方法もいくつか考えてやってもいるが、この先が大変 だなと・・・・・・
遠藤 やはり、空間をつくり出せる、宇宙的な広がりに肉薄してゆく、一つの俳優の存在というものが問われざるを得ないですね。
緒方 仮面をつけた時に、自分の生理だけで喋るんじゃなくて、セリフをもう一度構築しなくちゃいけない。役者達がセリフを作曲してほしいと思うのね。音声で作曲してほしい。その作曲できてないと、一つのセンテンスのセリフをどこへもっていくかが、きちんと決まってないと、仮面と拮抗できない。
それができてる人とできない人がいて、カーっとなって、そのテンションだけでやってると、それがグラグラなわけで、ある時にはあってるけど、それが喰い違っていても平気というか、見えなくなっちゃうんですね。仮面をかぶっている自分を意識しなくなる。そのくらい仮面劇というのは、ある意味で冷静な芝居だと思うのね。
遠藤 仮面はね、片方で面をつけることによって、一種のトランスになりやすい要素を持ちながら、実は方法論として、冷静さが要求されてくる。その二つが、相まみえることによって、仮面劇のテンションの高さ、日常性の飛躍が可能になる。両方が極端な方向性を持ち、それがぶつかりあった時が一番面白い。ただ役に扮する、というんじゃなくて、その両面性がぶつかりあうことによって、仮面をつけることのダイナミズムも出てくる。
ー笠井 それは確かに、ポートの若い役者にとっては、与えられた仮面みたいなものが、少しありすぎですね。
ー新鮮に喧嘩する自我の主張もないし、出会い方が希薄だと。
遠藤 創る側から言えば、役者のエネルギーに負けるかと、面に一つの思いを込めてゆくじゃない。しっかりした面をつくるには、1コ、1ヶ月位かかる。体力的にも大変なんだけど、それに見合うだけのものを役者がもっと出してほしい。
ー笠井 それに見合うだけの方法論、システムというものが、役者の個人の才能に任せるんじゃなくて、ボート シアター全体の開発すべき課題としてありますね。
遠藤 中の誰かが発見して、それで全体が動く。そういうことの繰り返しだと思うし、事実、この何年も前からやってたレッスンは、そういう道順だった。新しい面をつけて、誰かが、あっ、こんなことをやった。それに触発されてやる。今そういうことが欠けてきてるという気はするね。
緒方 ただ、よそで頼まれて創るのと違って、ボートでの面は、あの役者にこれをかぶせるという、とっても体的な楽しみはあるわね。挑戦してやろうというのもあるし、ある意味で助けになるかもしれないとかね。
遠藤 面つくってるとき、役者の善し悪しで面も良くなったり、悪くなったり、絶対ある。この役者と決めて、本人の顔の上につくってるわけだけど、役者の出せる可能性というものが、やはりどこかその面に出てくる。そのイメージの持てる役者と持てない役者が、歴然といることは確かだね。
緒方 ここまでやっちゃっていいのかと思うこともあるし、だから、役者もこちらに凄い面つくらせるだけのものをぶつけてほしい。こんな面じゃできない、もっと違うのつくれとね。そういうことで言えば、こっちがつくって役者がつけて、それが密接な関係のなかで試せるのは、なかなかいいことだと思ってる。
ボートシアターの衣裳
ー笠井 次に衣装ですが、衣装の仕掛け方と仮面の仕掛け方の関連は
緒方 衣装は絶対役者を生かしたいと思うの。衣裳はみえなくなってもいいの。あまり目立ちたくない。やっぱり衣裳は、あくまでも役者を生かすため、役者個人でなく役になった役者を生かすため、というのが一番の基本なんですね。
それとボートの場合は、お金の問題。限られた予算の中で、みんなで手作りをしているけど、技術がないから、安くて作りやすいということを考えながら、デザインを考えます。みんながどれだけ動きやすくて、美しく見えて。美しいというのは、いろんな基準があるけれど、私は本人の肉体が見えるようにというのが一番の基準になってる。父点を隠すことに積極的でなくって、悪いとこが見えてもいいの、いい所が見えれば。
あとは役に対する解釈というのは、仮面と同じで。役者がどこまで出してくるかというので決まるし、役者との戦いみたいのがあるわけ。これだけやったけど、あんたどうやってくれるみたいな。それを全然やらない役者は、こちらが興味失っちゃうわけね。与えられたから、かろうじて着てるというのは。
それだったら、もっと注文してもらった方がいい。こう表現したいから、こういうのがほしいとか。
ただ、それが、機能性からばかりの注文とか、本人の趣味からの条件は呑めないの。
逆に動きにくい衣裳をつくることがあり得るから。縛ることで演技が良くなるということがあるでしょ。衣裳をつくったことで、その人が違う表現をするとか。それは一種のお互いの挑戦なのね。動きやすさなら、タイツはいてレオタード着てやればいいわけだから。そういう役者も多い。自分の動きのためにどんどん削っていっちゃって。
遠藤 今、古い帯地を使ったり、いろんな貝殻拾ったり工夫してるわけだけど、どこから出てきたんだろうね。
今はデザイン画がないでしょ。何年か掛かって、いろんな布地集めて、それを組み立てていくという手法が、どういうところからでてるか、またどうしてボートがそうな
緒方どこからでてきたのかな。もしかしたら、ボートという空間のせいかもしれない。ボートは、古くても何でも本物の素材でしょ。
今、普通の劇場で使う素材をボートに持ってきたときの異和感。ボートはそういうのが許せない空間なのね。古かろうが何だろうが本物じゃないとダメ。しかも間近でしょ。それで古い帯とか、生なりの綿・麻、継ぎはぎしても着物のいいものとか、千葉の海で拾った具
殻とか使うんです。ボートの持つ素材のせいだと思う。
遠藤 本物を一から織らせたりするのはお金があれば別だけど、財政的な中からでてきた方法論だろうね。2~3年かけて、古着屋さんに行ったり、個人の持ってるものを譲り受けて、コツコツためて、それをいざっていう時に、そこから発想して芝居にあった衣装にしていく。そういう作業が定着したわけだ。
緒方 あれ木の船の中でなければ違ったかもね。合繊使っても、プラスチック使っても、面白い場所であるなら、そうだったかもしれない。
遠藤 やはり空間の持つ素材、マチエールから全部含めて持っている世界があるわけで、ボートという木造の古い船が、仮面にしろ、衣装にしる、演技や音楽にしてもすべて、意識するしないにかかわらず、影響を及ぼしているとは言える。あれがテントだったら違うだろうし。
緒方 船の中っていうのは、ある種豪華なんですよ。
本当の木のぶ厚さ、素材の存在感。だからポリエステルだのナイロンは、安っぽくてみじめに見えてくる。役者の肉体も貧弱に見えてしまう。
遠藤 それに距離の近さというのもあるね。
緒方 アビマニュの血のきれ一つにしても、丈夫さということでポリエステルを使ってみたけれど、結局合わない。
遠藤 結局、本絹で作り直した。それで初めて鮮やかに見えてくる。なじんでくる。
それと照明の問題も大きい。
ー笠井 近代劇は、照明とセットで発展した。劇場はどんどん大きくなり、近代的になって、その分照明でいるいろ処理する。それをとっぱらって、あの距離感と素材感だけでやってゆくとしたら、照明は逆に動かす必要がないのでは?
緒方 いつか、マチネの公演で、昼間の自然光でやったら、水の揺らめきが天井に反射して。ああいう時、照明って一体何だろうって思ったんですよ。
そういう時、生の肉体と、船の木のあったかさと水の照り返しの中で、素材はというと、生なりの木綿であったり、本絹だったり。自然光の照り映えた中では、そういうものが一番美しくなじむのね。
この間たまたま、能舞台で地咀舞を見たんだけど、化粧した顔が一番汚く見えた。
能舞台には化粧は絶対合わない。仮面が素か。
同じようなことがボートにも言える。ナイロンなんかで作った衣裳は、ある意味で化粧なんですよ。プロセニアムのある劇場での装置・照明の中で、完全に人工的な空間の中だと本当に美しく見えるものが、ボートでは美しく見えない。あるわざとらしさということで使うのなら面白いけれど、能衣裳もピンクやブルーの照りでは意味を持たない。
私の衣裳の手本は最初は能。それと歌舞伎。もっと前はやはり西洋的なものに憧れていたからレオン・バグストだったの。
遠藤 バリの踊りの衣裳との関連はどうなの。日本のものは肌を出さないじゃない。うちの芝居は、肩や肌を出す、そういう要素が強いじゃない。
緒方 日本の芝居は、能でも歌舞伎でも、肉体より衣装を踊らせるでしょ。裾線がどこまで舞っているかがすごく重要で。その点、ヨーロッパは肉体そのものでしょ、何でも。どんどんレオタード、タイツ、裸になっていくのは当然で。
インドネシアで面白いと思ったのは、西洋的な肉体そのものが表現するというものと、日本のように衣装が表現するというか、肉体を不自由に包み込んだエロチシズムというか、ちょうど接点のような気がするのね。
今、ボートでやってる「小栗」も「マハーバーラタ」も、上半身出して、下半身を出さないという点では、影響されてるかもね。
それと、日本人の下半身はあまり美しくない。上半身はしなやかで、胴体なんか白人よりきれいだと思います。
ー遠藤 志の問題があると思うんだ。船の狭い空間では誤魔化しがきくけれども、ま、見る人が見ればバレますがね。これから野外とか、色々空間が変化し出すと、役者それぞれがどういう志で立っていられるか、がね。
矢吹 センスと志って実は似てるんじゃないかって気がする。音を出す事の志っていうか、出した音がどう拡がり、何を伝えるかというところでの志は、リズム感の良し悪しとは一寸違うんだ。その辺が欠けてるんじゃないか?
橘 伝えたいという思いはあっても、思いだけで、伝わらない。という事もある(笑)。
森田 言葉と音楽に目がいっていてそっちの志はあるんだけれど、動きが一番ねェ・・・・・・。
ー遠藤 そんな事はない、ただ動けないんで。それと、個人差もあるしね。
森田 だから個々の、一番開かれた部分をもっと引き出していくような事が必要だと思う。その方が喜びも大きいだろうし、
苦しい所をいくら訓練しても、いやになっちゃうってのもありますよね。効果も上らないし。楽しまなくっちゃ、というレッスンも必要ですね。だから、コンサートのような試みは良い事だと思う。
矢吹 本当はね、コンサートにも動きとしても見るに耐える演劇性が欲しいと思っていたんです。聴くだけではなくて見る音楽今はやりのビデオのようなものとは本質的に違うんだけれどね。音だけで勝負しようといったって、ポートシアターのメンバーだもの(笑)。それをカバーする為にも、より良くする為にも、動きとして見ても演劇性がある、というものをボートシアターの演奏する音楽としては考えて行きたい。
『YBT 横浜ボートシアターの世界』より
発行 1968年9月24日
編集 速藤啄郎
写真 岡本 央
プロフィール
緒方 規矩子
緒方 規矩子
OGATA Kikuko
衣装
東京府日本橋生まれ。京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)図案科に学ぶ。在学中から演劇に傾倒し、クラスメートの田中一光や粟辻博等と「アトリエ座」という学生演劇団に参加。美大卒業と同時に新たな劇団「喜劇座」を起こす。鐘紡勤務をへて、舞台衣裳デザイナーとして1952年、関西歌劇団の『椿姫』でデビュー。以後...